2024年3月24日 メッセージ要旨 | ||||
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メッセージ 丸山豊牧師 礼拝者の心得 詩篇 24篇1~10節 |
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主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。 ヨハネの黙示録 4章11節 |
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主なる神が創造なさった天地は、「見よ。それは非常によかった」と言われた通りの『地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの』の楽園で、格別人間は、すべての生き物を支配する万物の霊長として、神のかたちに創造されました。 礼拝は、神のかたちに創造された者としての自覚をもってささげられなければなりませんが、創造主の御前に立ち得る人、心も、たましいも、ことばもきよく正しい人など、一人もおりません(ローマ人への手紙3章10~12節)。 私たちが知る被造物は、主なる神に背いて堕落した人間の手によって、わずか一世紀にも満たないうちに荒れ果て、汚染されて、多種多様の生き物は絶滅し、戦争は未だ止むことがありません。 このような人間の罪の現実にもかかわらず、主なる神は、主のみ顔を求め続けたヤコブを愛し、彼の12部族をイスラエルとして選んで、彼らの礼拝を通して彼らに神の義を学ばせ、イエスキリストを信じる人々をも、その信仰によって義と認めて、礼拝の民(ヤコブの一族)に加えてくださいました。 詩篇24篇6節と7節の間に、「セラ」とありますのは、楽器の間奏を求める音楽符号のようで、「セラ」とあったらその前に書かれている内容について黙想し、自分を顧みることが求められております。 この詩篇24篇の作者ダビデは、主の箱をダビデの町に運び入れようとして主の箱を迎え入れることができませんでした。牛車が運ぶ主の箱が揺れて、それを抑えようとしたウザが神に打たれて死んだためですが、主を畏れたダビデは、オベデ・エドムの家に主の箱を持って行き、三ヶ月間「セラ」をし、自身を顧みて後に、「門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。…」と、力の限り主の前に歌い踊って、イスラエルの全家と共に、主の箱を神の幕屋に迎え入れました。それを見ていたダビデの妻ミカルは、「ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前に裸になられて」と、嫌みな言葉をダビデに投げかけましたが、この時のダビデは、自分の王座を、栄光の王に明け渡していたのです。 こうして天地創造の主は、ダビデの幕屋に入って下さり(臨在)、ソロモン神殿にも、会堂にも入って下さり、さらに、イエスキリストは、神の御位を捨て、人となって馬小屋に入って下さり、人の罪を贖うために十字架にかかって黄泉にまで入って下さり、復活なさって、私たちの究極の敵である死に勝利して下さいました。そして昇天なさって、神の右の座に入って、栄光の王となられ、助け主聖霊となって、主の御顔を求める人々の内にも入ってくださいます。 罪と死に勝利なさったイエスキリストこそ、「栄光の王」であることを知る私たちは、ヤコブやダビデに勝って主の御顔を求め続け、週に一度「セラ」をして主を礼拝し、主が再び来られるその日には、永遠の戸を広く開けて、「栄光の王」をお迎えしようではありませんか。 (丸山豊牧師) |
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