2024年2月4日 メッセージ要旨
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                       呼ばわる者の泉

                                          士師記 15章9~20節                                                                                                                                       
    
 すると、神はレヒにあるくぼんだ地を裂かれたので、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復し、生き返った。それゆえ、その名はエン・ハ・コレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。
                   

                                      士師記 15章19節
                                                                 
 サムソンの一人で千人を打ち倒すほどの怪力の秘密は、彼が神に献げられたナジル人として生まれたことにありました。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救うために生まれた人だったのです(13章5節)

 しかし、ユダの人々はそのサムソンを縛ってペリシテ人の手に渡してしまいます。ペリシテ人の支配下での平穏を願う彼らは、ことを荒立てるサムソンを望まなかったのですが、彼らの本当の支配者は神なのですから、彼らはペリシテ人を恐れるのではなく、神を恐れるべきなのです(11節)

 彼らがペリシテ人に支配されているのは、神に背を向けているからなのですが(13章1節)、彼らは立ち返って神を呼び求めず、むしろ、ペリシテ人の支配を受け入れてしまっているのです。彼らはサムソンを厄介者とし、ともに戦おうとはしませんでした。

 ペリシテ人の支配を受け入れていたユダの人々のように、主を知らない多くの人々によって世が支配されている日本の現状を、どうにもならないことのように受け入れてしまっているようなところが、私たちにもあるかもしれません。けれども、私たちの心に、また、私たちの交わりのうちに存在する神の国が、神の支配が、私たちをとおして世の隅々にまで広がって行くことを、主は期待しておられるのです。

 主の霊がサムソンの上に下ると、彼を縛っていた綱は解け落ち、一人で千人を打ち倒す力が与えられました(14~15節)。私たちも主の霊に満たされることで、地の塩、世の光として影響力を発揮する御力が与えられるのです。

 ろばのあご骨という捨てられて何の価値もないものが、千人を打ち倒す勝利に用いられました(15~16節)。私たちの教会も、私たち一人一人も小さな存在ですが、最も弱い器であっても神の御手に握られるなら力強いみわざのために用いられます。ですから、望みを抱いてまいりましょう。

 ペリシテ人と戦った後、サムソンは渇きを覚えましたが、彼が呼び求めると、神は泉を開いてくださいました。サムソンはその水を飲んで元気を回復し、生き返ります(18~19節)

 私たちも世に遣わされる日々の歩みの中で疲れ、霊的な渇きを覚えることがあります。けれども、主を呼び求めるなら、いのちの泉である聖霊に私たちは満たされ、新たな御力にあずかるのです。主と親しく交わることで私たちは聖霊に満たされ、地の塩、世の光として影響力を発揮する御力にあずかります。そのことを覚えて、絶えず主を呼び求め、聖霊に満たされて歩んでまいりましょう。