2024年12月1日 メッセージ要旨
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アドベント 第一週                                           
   泉が見える開かれた目

                         創世記 21章14~21節
 
                                                                                                                                      
     
 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで、行って皮袋を水で満たし、少年に飲ませた。

                                     創世記 21章 19節
                 
           
 ハガルは息子イシュマエルとともにアブラハムの天幕から追われ、荒野をさまよいます。皮袋の水が尽き、命の危機が迫る中、ハガルは、力尽きて動けなくなった息子を、わずかな日陰のある灌木の下まで運び、そこに投げ出すように寝かせるのが精いっぱいだったようです(15 節)。
 わが子の死んでいくのを見るのが耐えられなかったハガルは、離れた所に行って座り、声をあげて泣きます(16節)。
 しかし、彼女は、悲嘆にくれる必要はなかったのです。なぜなら、そのあたりには、井戸があったからです(19節)。けれども、神がハガルの目を開かれるまで、彼女はそれに気づきません。目に見える状況に心が奪われて絶望する彼女には、自分のそばにあるいのちの井戸が見えなかったのです。
 主を信じる人には、あらゆる恵みにあふれるばかりあずかることができる泉が与えられています。聖霊に満たされ、神の愛と力が注がれ、使命を果たすための必要がすべて備えられます。
 心の目が開かれることで、そのような泉があることに気づくのです。目に見える困難な現状に心が奪われてしまうと、心の目は閉ざされ、泉が見えなくなってしまうのです。
 神のことばを聞いたことで、ハガルの目が開かれたように(17~19節)、聖書のみことばをとおして神の御声を聞くことで、私たちの心の目は開かれるのです(詩篇119篇130節)。
 イシュマエルの声を聞かれた神は、自力で立ち上がれなくなった彼を起こし支える使命を、ハガルにお与えになります(17~18節)。ハガルは、井戸の水で皮袋を満たし、イシュマエルのもとに持って行って飲ませました(19節)。
 十字架の上で人々の罪を負われたキリストを信じることによって、罪赦され、神と和解する救いの道を、世の多くの人々は知りません。主の救いを知らなければ、その救いを自ら求めて神のもとへと立ち返ることはできません。
 ハガルが、自力で立ち上がれなくなったイシュマエルのもとに水を運んだように、私たちには、自力で神のもとに立ち返ることのできない多くの世人のもとへ、いのちの水を、主の救いを運ぶ使命が与えられているのです。その私たち自身が、どのような時も生ける泉があることに目が開かれていることが大切です。
 自分の乏しさや困難な現状に目を向けると、泉などないように思えてきます。神を仰ぎ見ましょう。御声を聞いて、生ける泉があることに目が開かれて、その泉からあふれる主の恵みと救いを世人のもとに運んでまいりましょう。