神は顔と顔を合わせてモーセと語られました。御顔がモーセに向けられても、モーセが別の方を向いていてたら、顔と顔を合わせることはできません。モーセの顔が御顔の方を向いていたので、神は顔と顔を合わせてモーセと語ることができたのです。
けれども、モーセは肉眼で御顔を仰ぎ見たわけではありません(33章22節。神の御顔は肉眼で見ることができないのです。人の目は見るものの方に向きがちです。ですから、常に心の目で御顔を仰ぎ見ることを意識する必要があります。御顔をまっすぐに仰ぎ見ているつもりが、別の方を向いていたとしても、目に見えないので気づきづらいのです。
もし、天皇、皇后にそっぽを向ける人がいたとしたら、無礼な人だと言われても仕方がないでしょう。まして、天地の造り主であるといと高き神が、御顔を向けておられるのに、私たちが別の方を向いているというのは、本来ならできいないことなのです。
話しかけたいと思っている相手が振り向いてくれないと、悲しくなるように、神が語りかけようとしておられるのに、私たちが別の方に向いていれば、神を悲しませることになるのです。
わだかまりや、後ろめいたさがある相手には、顔を向けることができません。私たちは御顔をまっすぐに仰ぎ見ることのできるような真末との良い関係にあるでしょか。
親し友には自分の夢や好きな人のことなど、心の内を明かすように、神はモーセに友と語るように自分の心の内を、みこころを明らかになさったのです。イエス様も弟子たちに御父の御旨を知らせて友と呼んでおられます(ヨハネの福音書15章15節)。
私たちはみこころを知る友のような親しい関係を神と築けているでしょうか。ご自分のたった一人のかけがいのない御子を手放し、与えるほどの大きな神の愛を、十分に理解し、味わっているでしょうか。私たちが罪赦され、神との平和を得て救われるために、神の御子キリストが私たちの罪を負って十字架にいのちを捨ててくださった、そこに神の豊かな愛が示されているのです。
顔と顔を合わせて主と話したモーセの顔は、鏡のように主の栄光を反映して輝きを放ちました(34章29~35節)。私たちも主を仰ぎ見るなら、主の栄光に輝くのです(詩篇34篇5節)。
神は御顔を私たちに向けて、友と語るように親しく語られます。私たちも御顔をまっすぐに仰ぎ見て、御声を聞いて、その深い御旨と愛を知ることができるように、そして、主の愛に満たされて、主の栄光に輝いて、世の光として世人を主のもとへ導くことができるように、歩んでみりましょう。
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