2023年4月30日 メッセージ要旨
メッセージ      Home
                                                              

                    神は良い地を与える方

                                          申命記 1章26~33節                                                                                                                                       
    
   私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地は良い地です。

                                  申命記 1章25節 (抜粋)                                                                                                                                          
 

 偵察に行った12人が手に入れた一房のぶどうは、二人で棒で担ぐほど大きく(民数記13章23節)、神が与えようとしておられるカナンの地は、乳と蜜の流れる良い地でした(25節)。

 ところが、イスラエルの民は、その大きな恵みを、恵みとして受けとめることができませんでした。なぜなら、カナンの住民は背が高く、その町々は大きく、城壁は高く天にそびえていると聞き、彼らは恐れと不安に支配されてしまったからです(28節)。素晴らしい良い地も、恐れる彼らには自分たちを食い尽くす地に思えたのです(民数記13章32節)。この時、彼らはその地に上って行こうとはしませんでした(26節)。

聖書には「恐れてはならない」と言うことばが何度も出て来ます(29節)。なぜなら、人は恐れると信仰的な視点を見失つて、物事を悪い方に考えてしまうからです。イスラエルの民も「カナン人の手に渡されて根絶やしにされる」と悪く考えてしまいました(27節)。

 けれども、カナンの住民よりはるかに偉大な神が先立って行かれ、御民のために戦われるのですから(30節)、恐れる必要はなかったのです。むしろ、カナンの住民の方こそ、神がともにおられるイスラエルの民を恐れていたのです(ヨシュア記2章11節)。

 エジブト脱出の際、神は海を分けて負い迫るエジブトの軍から民を救い、昼は雲の柱、夜は火の柱によって民の荒野の旅を導き守られました(33節)。そのような神の偉大な御業を見ておきながら、彼らは信仰を働かせることができませんでした(32節)。カナンの地と住民への恐れが、過去の恵みを忘れさせ、力ある神を見えなくしたのです。

行く手に大きな困難がたちはだかっても、それよりはるかに偉大な神が私たちとともにおられるのです。困難に目を奪われてしまうのではなく、偉大な神を仰ぎ見て、その恵みと御救いの数々を思い起こすことが、信仰を働かせる秘訣なのです。

 イスラエルの民は「主は私たちを憎んでおられる」(27節)と言って神の愛を疑いましたが、荒野の旅の全道中、人が自分の子を抱くように神が彼らを抱いてくださったのです(31節)。

 神の子どもとされた私たちも神の御手に抱かれています。神は私たちをご自分の子とするために、御子を与えてくださいました。すなわち、十字架の上で私たちの罪を負われたキリストによって、私たち
の罪を赦し、ご自分の御手の中に引き寄せてくださったのです。その神の愛を疑ってはいけません。

神は愛するご自分の子どもたちに悪い地を与えることはありません。神の計画は災いではなく、平安を与える計悪であり、将来と希望を与えるためのものです(エレミヤ書29章11節)。私たちはどのような時も神の救いのご計画の中に置かれています。十字架の向こうに復活があるように、困難の向こうに神の救いが、恵みが用意されています。神を信じて、神が与えようとしておられる良い地に向かって進んで行きましょう。