2023年4月16日 メッセージ要旨
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                    からし種ほどの信仰があれば

                                          マタイの福音書  17章 19~23節                                                                                                                                       
    
 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
                                                                                                                                             マタイの福音書 17章20節
 

 イエス様がご自分の死について予告なさったことで頭が一杯になっている弟子たちには、「三日目によみがえります」ということばが全く響いていないようで、彼らはたいへん悲しみます(23節)。よみがえると言われても、ありえないことのように思えて、信じることができなかったのでしょう。

山に命じれば移動するというのは、不可能なことが可能になることを示す誇張表現で、ユダヤ人の慣用句から来ています。ユダヤ人にとって「山を移す」とは、常識では解決できそうもない困難を解決することを表しています(20節)

弟子たちは悪霊につかれて苦しんでいる人を治すことができませんでした(19節)。その人はこれまで何度も火の中、水の中に倒れました(15節)。十二弟子は悪霊を追い出す権威をイエス様から授かっていましたが(10章1節)、彼らの目には、その権威よりも、目の前で苦しむ人の困難な状況の方が、たちはだかる山のように大きく映っていたのです。

イエス様は弟子たちの信仰の薄さを指摘なさいましたが、偉大な信仰でなければならないとは仰せにならず、「からし種ほどの信仰があるなら」と言っておられます(20節)。からし種は非常に小さな種です。

神はエリヤを通して偉大なみわざを行われましたが、エリヤが私たちとは違う偉大な信仰者であったとは記されていません。「エリヤは私たちと同じ人間でした」とあります(ヤコブの手紙5章17節)。不可能を可能にするのは、信仰の大きさではなく、神の御力なのです。からし種ほどの信仰があれば、エリヤに働いた神の偉大な御力が、私たちにも働くのです。

不可能を可能にする神の御力は、キリストの復活に現されています。キリストは死を打ち破ってよみがえられました。人の前に山のように立ちはだかる死の力を打ち砕いてくださったのです。

弟子たちは信仰の薄さゆえに、主の死の予告に落胆し、主の復活に目を向けることができませんでした。目の前の困難な状況に目が奪われて、全能の神を片隅に小さく映している、そのようなところが人にはあります。十字架に復活が伴っていたように、試練や困難には神の救いのみわざが伴っています。そのどちらに目を向けるかは、その人の信仰にかかっているのです。

不信仰には恐れや失望や不平や悲しみが付きまといます。反対に、信仰には平安と希望と感謝と喜びが伴います。神がすべてを良きにしてくださると信じているからです。信頼して、画面いっぱいに全能の主を仰ぎ見ましょう。そうすれば山のように大きな困難も小さくなります。

からし種ほどの信仰があれば、山のように大きな困難に打ち勝つ、神の全能の御力が私たちに働きます。信じて、主を仰ぎ見てまいりましょう。