2023年2月12日 メッセージ要旨
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                    主を喜び味わう人の力

                                            ネヘミヤ記 7章72節~8章12節                                                                                                                                       
     主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。                                                                                                                                      ネヘミヤ記 8章10節(抜粋)
 
 聖なる会合を開くよう定められた第七の月の一日に(2節.レビ記23章24節)、イスラエルの民全体が一斉に集まって来て、律法の書の朗読を求めます(1節)。それはエルサレムの城壁が完成した第六の月の二十五日から(6章15節)、わずか数日後のことでした。城壁完成後、民が真っ先に求めたことは、聖書のみことばに聞くことだったのです。しかも、夜明けから真昼まで、みな律法の書に耳を傾けました(3節)。私たちにはこのようなみことばに対する飢え渇きがあるでしょうか。

当時のユダヤ人は、第七の月を年の始まりとしていたので、第七の月の一日は、事実上、新年を祝う日でもありましたが、民はその喜びの日に泣いてしまいます。律法のことばによって、神のみこころから外れた罪深さが示されたのです(9節)

しかし、ネヘミヤやエズラなど指導者たちは、過去を悔いて悲しむだけで終わらぬよう民に向かって注意し(9節)、むしろ、新年の祝祭の日にふさわしく、祝宴を開いて、喜びを味わうよう勧めます。それは、単なるお祭り騒ぎではなく、主を喜ぶ祝宴でした(10節)

深い罪の自覚によって悲しむことと、祝宴を開いて喜ぶこととの間には、大きな落差があるように思えます。しかし、民は、悔い改める者の罪を赦してくださる神の愛を理解し、祝宴を開いてその神の恵みを喜び味わったのです(12節)

神の愛と恵みは、十字架に示されています。キリストは十字架の上で私たちの罪を負われ、私たちを救うためにいのちを捨ててくださいました。信じて悔い改めた私たちは罪赦され、神との平和、神との親しい交わりにあずかる者とされました。

パリサイ人は週に二度断食をし(ルカの福音書18章12節)、ヨハネの弟子たちもそれに準じていたようですが、婚礼などの喜ばしい日には、断食は行われなかったのです。キリストがともにおられるところには、婚礼の祝宴のような喜びがあります。花婿に付き添う友人たちに、身を戒め喜びを断つ断食をさせることができないように、キリストがともにおられるのに、喜びを味わわないでいることなどできないのです。花婿なるキリストが十字架につけられ、取り去られた時には、断食に象徴される悲しみに弟子たちは沈みましたが(ルカの福音書5章33~35節)、キリストはよみがえられ、今は信じるすべての人とともにおられるのです(マタイの福音書28章20節)

主の臨在は祝宴のような喜びを私たちに与えます。そして、その喜びが私たちの信仰生活に力を与えるのです。主を喜びとし、主と親しく交わって、喜びに満たされて、歩んでまいりましょう。