2023年11月26日 メッセージ要旨
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                                                            メッセージ  丸山豊 牧師 

                    十分の一献金について

                                           マラキ書 3章10節                                                                                                                                       
    
 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
                   
                マラキ書 3章10節                                                                 
 ここに「わたしを試してみよ」とありますのは、申命記に「主を試みてはならない。」とあるような、神に対する挑戦として「試す」のではありません。

 信仰は、主との人格的な関係を持つための手段であり、「祝福」は財産や自分の置かれている状況にあるのではなく、主と私たちとの正しい関係の中にあります。ですから主は、アブラハムとの深い関係を維持するために、祝福の契約を結ばれました(創世記13章14~18節)。 既に多くの富を所有していたアブラハムですが(創世記13章2節)、これらの富は祝福というよりむしろ、彼のしもべらとロトのしもべらとの間に、競争や論争や不調和を引き起こしてしまい、仕方なく、ロトはヨルダンの低地に、アブラハムはカナンの高地に別れて住むことになってしまいます。その結果、ソドムの町に住んでいたロトの一族や財産は、ケドルラオメルと彼に組する王たちの同盟軍によってすべて奪い去られてしまい、それを知ったアブラハムは、彼のしもべら318人と共に、北方のホバまで同盟軍を追跡して、ソドムとゴモラの財産や人質と、更にロトの一族や財産のすべてを奪還します(創世記14)

 この小人数による勝利は、神がアブラハムに約束なさった「祝福」の一端で、アブラハムは戦利品の十分の一を、神の祝福に対する感謝の応答として、パンと葡萄酒をもってアブラハムを祝福したメルキゼデクに与えました。

ちなみに、アブラハムの子孫であり、その死・復活・救いを提供することで、すべての人々を祝福なさったイエス・キリストは(ヨハネの福音書8章56節)、メルキゼデクに等しい大祭司として、ヘブル人への主題にも取り上げられており、メルキゼデクのように、パンとぶどう酒によって弟子たちを祝福し、聖餐に与かる私たちをも祝福してくださいます。  

 このアブラハムの祝福の十分の一の献げ物は以後、やもめ・みなしご・在留異国人たちを養うために用いられ、アブラハムの孫ヤコブへと受け継がれ(創世記28章22節)、モーセの時代には、主の御用に携わるレビ部族のために用いられ、律法にも規定されます(へブル人への手紙7章5節)

 こうして主の約束にとどまり、主から与えられたすべての物の十分の一を献げて神に応答して行ったアブラハムは信仰の父と呼ばれるようになり、ヤコブはイスラエルの12部族の祖となります。一方、この世の富に執着して、主をないがしろにしたロトやエサウは、自ら滅びの道に突き進んでしまいます。

神の国の支配者であられる万軍の主は、霊においても、肉においても溢れるばかりの祝福に与からせるために「わたしを試してみよ。」と、信仰による感謝の応答を私たちに促しておられます。

 この世では、物を購入しただけで十分の一の消費税を徴収されますが、この世と神の国との二重の国籍を持つ私たちは、神の国の一員として、収入の十分の一を、神からの祝福として謝して献げるとき、私たちは溢れるばかりの神の祝福に浴するのです。                   (丸山豊牧師)