2023年11月19日 メッセージ要旨
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                    どんな時も主を信頼して

                                           出エジプト記 17章1~7節                                                                                                                                       
    
 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
                   
                へブル人への手紙 11章6節                             
                                    
 神が水と食料の乏しい荒野にイスラエルの民を導かれたのは、欠乏の中にあっても神が養ってくださるという信頼を民に学ばせるためでした。

 けれども、民は飲み水がないことで不平を言い、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」(7節)と言って、神の臨在を疑ってしまいます。彼らは、エジプト脱出の際に海を分ける神のみわざを見、雲の柱、火の柱によって導かれ、天から降るマナによって養われ、そのように神のみわざと恵みを経験していながら、いざ欠乏と困難が及ぶと神を信頼することができません。荒野の欠乏の中で彼らの不信仰があらわになったのです。

 しかし、神はこのような民にも恵みを施し、水を与えてくださいます。本来なら民が打たれてもしかたがないところを、代わりに岩が打たれて、水が流れ出ました(6節)。この岩はキリストを表しています(コリント人への手紙第一10章4節)。私たちの代わりにキリストが打たれたゆえに、すなわちキリストが私たちの罪を負って十字架につけられたゆえに、生ける水の川である聖霊が流れ出て、私たちに与えられたのです。

 民は水に渇いたので、岩から流れ出る水にあずかりました。渇いていなかったら、水を求めることはなかったでしょう。イエス様も、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と招いておられます(ヨハネの福音書7章37節)

 聖霊に満たされるには、空の器でなければなりません。他の何かによって満たされている心は、聖霊を求めようとはしませんし、何かに占領されている心には、聖霊の入る余地がないのです。神に信頼する人は、自分の手中にあるものを手放して、神にすべてをゆだねます。そのような空の器が聖霊に満たされるのです。

 イスラエルの民は荒野で神の臨在と恵みを疑いましたが、神がおられることと、神が報いてくださる方であることを信じなければ、神に喜ばれることはできないのです(へブル人への手紙11章6節)

 多くの人が主を信じていない現代の日本は、福音の光が、主の栄光が輝きづらい、闇におおわれた世です。けれども、うちに聖霊を賜る私たちは、神の臨在を仰ぐことができます。荒野のように乏しく、困難な時も、どのような時も、神がともにおられ報いてくださると信頼してまいりましょう。そして、聖霊に満たされ、主の臨在を仰いでまいりましょう。