2023年1月8日 メッセージ要旨
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                      身代わりとなったユダ


                                                創世記 44章1~34節                                                                                                                                       
   だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。                                                                                                                         コリント人への手紙第一 10章24節
 
 ヨセフは、自分の杯をベニヤミンの袋の中に入れておくよう命じ(2節)、かつての自分と同じような立場にあるベニヤミンを用いて、兄たちが本当に昔とは違う人格へと変えられたのかどうかを、確かめようとします。

 今、かつてのヨセフのように父に溺愛されているベニヤミンに、杯を盗んだ疑いがかけられようとしています。ヨセフをねたんで売ってしまった兄たちは、ベニヤミンをも見捨ててしまうのか、それとも、自分たちが不利益をこうむっても、窮地に陥ったベニヤミンを助けようとするのか、兄たちは試されることになります。

 杯がベニヤミンの袋から見つかります(12節)。ヨセフの家の管理者は、杯が見つかった者だけを奴隷とし、ほかの者は無罪としようと言っています(10節)。兄たちは自分たちの安全と将来を確保するために、ベニヤミンを見捨てて帰ってしまうこともできます。冷酷にもヨセフを売ってしまった、かつての兄たちだったら、そうしていたかもしれません。

 しかし、彼らはベニヤミンを見捨てることなく、みな一緒に町に引き返します(13節)。彼らは確かに昔とは違う人格へと変えられていたのです。

 兄弟たちはこの杯について全く身に覚えがありませんでしたが、ユダはヨセフの前で無実を訴えるのではなく、「神がしもべどもの咎を暴かれたのです」(16節)と言っています。兄弟たちが三日間監獄に入れられた際、ヨセフを売った罪の報いとして苦しめられていると受けとめたように(42章21節)、このユダのことばにも、ヨセフを売った罪の自責の念が現れているのです。

ヨセフはベニヤミンだけをとどめるよう仕向けますが(17節)、ベニヤミンを見捨てて帰ったとなれば、ヨセフが失われたことへの自責の念で苦しんで来た兄たちが、また同じ過ちを繰り返すことになってしまいます。それは兄たちにはできないことでした。また、ベニヤミンが一緒でなければ、父ヤコブがどんなに悲嘆に暮れるか、兄たちはよく分かっていました。

 ユダはベニヤミンの保証人となって、ベニヤミンを父のもとに連れ帰る約束をしていました(32節)。その約束を果たすため、ユダは自分をベニヤミンの代わりに奴隷としてとどめ、ベニヤミンを兄弟たちと一緒に帰らせるよう嘆願します(33節)

自ら進んでベニヤミンの身代わりになろうとしたユダに、罪人たちの身代わりとして、ご自分を十字架の上に進んで献げられたキリストの愛が象徴されています。

 ユダは自分のことではなく、年老いた父とベニヤミンのことについて述べています(18~34節)。愛は自分の利益を求めず、隣人の益となることを図ります。キリストはご自分を喜ばすことはなさらず、私たちを救うためにご自分を与えてくださいました。キリストの愛を宣べ伝える私たちも、自分の利益ではなく、隣人の益を求めてまいりましょう。