2023年1月22日 メッセージ要旨
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                                                             メッセージ 丸山豊牧師
                
                      日々新たにされて


                                            コリント人への手紙第二 4章1~18節                                                                                                                                       
  ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。                                                                                             コリント人への手紙第二 4章16節
 
 土の器の内に宝を持つ私たちは、イエス・キリスト()を宣べ伝えるしもべ(土の器)にすぎません。自らを良く見せる必要も、人に認めて貰う必要も、人に褒めて貰う必要も、お互い同志で張り合う必要もありません。土の器がこの世の肉の欲、目の欲、持ち物の誇り等でカモフラージュされていたのでは、キリストの栄光の福音の輝きを世に現わす事ができないからです。

 創世記2章7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあって、神が造られた器の一人一人は、神が愛する無二の存在であって、同じものなど、一つもありません。 

 用いられ方も千差万別で、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてキリストのからだである教会を建てあげるために、キリストご自身がお立てになりました(エペソ人への手紙4章11節)

イエス・キリストの弟子たちが、生れつき目の見えない人を見て、「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と揶揄した時、主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現われるためです」と仰って、彼の目を癒し、神の栄光を現されました。土の器の中に、輝く宝を見い出した人々の驚きを想像してみてください。神はナンバーワンではなく、オンリーワンの土の器を必要としておられ、キリストを内に持つ私たちの持ち場、立場を通して、神の栄光を輝かせ、神の愛を溢れさせようとしておられます。

 イエス・キリストは、十字架の死を「栄光の時」と言われ、私たちの罪を贖う全焼のいけにえとなって十字架にかかり、その体は打ち砕かれて、墓に葬られました。そして三日後に甦って、罪と病と死とに勝利なさって、私たちの復活の初穂となられ、その受けた傷から、神の光がこぼれ輝き、神の愛が溢れ流れ出て、私たちを潤し、癒し救って下さいました。

 このイエス・キリストを土の器に持つ私たちは落胆しません(4章16節)。たとえ病気であっても、試練の只中に苦しんでいても、死の床に於てでさえも、神の栄光は現わすことができ、聖霊はその力を与え、助けて下さいます。

 この世の宝を全部献げて、土の器をイエス・キリストに占領して頂く時、主の測り知れない力が世に現わされます。キリストのために生きる私たちの生きざまを通して、キリストの宝を大いに輝かせて参りましょう。(丸山豊牧師)