かく切支丹地蔵菩薩像きりしたんじぞうぼさつぞう

清水庵全景
清水庵きよみずあん

 寺伝によると、この地にはかつて京都及び播磨の清水寺と同一の霊木により刻まれた聖観世音菩薩を本尊とする養泰寺という寺があったが、天正10年(1582)織田信長の長男信忠の武田攻めの折、織田勢に協力しなかったため焼失。その折飛脱した本尊の聖観世音菩薩のために、元和2(1616)年に堂宇を再建し「清水庵」と改称し安置した、とあります。

キリシタン地蔵像
  信州伊那に、隠れキシシタンの遺跡?

 江戸幕府が開かれる以前の伊那の地は、伊那の東、高遠城の支配するところでした。これは幕末まで続きます。
 文禄2(1593)年から慶長5(1600)年までの間、高遠城にあって伊那の地を支配したのは、京極高知です。高知はキリシタン大名で有名な京極高次の弟で自らも文禄4年に、城下に招いた宣教師の下でキリスト教の洗礼を受けヨハネと名乗りました。
 城主がキリシタン大名であり、城下には宣教師もいたわけですから、キリスト教に改宗する領民がいても不思議ではありません。
 寛永17(1640)年、徳川幕府が「寺請宗旨人別帳」を作り、キリシタンの根絶を図るまでは、「切支丹」は伊那にいて、当たり前にキリスト教を信仰していました。
 誰が、何故この寺に、ということは解りませんが、像の右手は失われているものの、胸のところに十字架が見て取れます。「観音様」は色々な姿に身を変えて、衆生の苦しみを救われると信じられています。その縁かもしれません、慈悲にすがって祈る伊那の隠れキリシタンの名残です。上の写真で見るとおり、寺は山深い中に囲まれ、当時としては人家からは離れたところにあります。
 また、信州高遠藩においても、キリシタン処罰のことがありました。

同 部分