JBSトリビア

JBS関連の知られざる事実を知ってる限りで紹介します。

 レース中に
JBSが休載したことがある。

補足トリビア:JBSは1984年の44号から始まって以来、基本的にずっと
休載はせずに掲載され続けてきた。
しかし最終レース途中の1995年46号で、最初で最後の休載をしている。
理由は、JBS終了後の投稿ページ「ジャンポスト」の予告と宣伝をしたためである。

 JBSのレースは、当初
「人気ディレクター・レース」という名称だった。

補足トリビア:JBS1の初代レースは、「初代レース」という名称ではなくて
「人気ディレクター・レース」という名称だった。
JBSは紙面構成を「テレビの放送局」に見立てていたため、
最も点数が高い投稿者=人気ディレクターという位置づけにしていたのであった。
ちなみに次の2代目からは、普通に「2代目」と表記している。

 JBSのコミックスのサブタイトルを
公募したことがある。

補足トリビア:JBSのコミックス(VTR)は24巻まで出た。
ジャンプコミックスは収録作のうち、代表的なサブタイトルを表紙に載せており
(例・こち亀の「浅草物語の巻」 ドラゴンボールの「孫悟空と仲間たち」など)、
JBSでも巻数に応じて「ジャンプ放送局第○巻発売!!の巻」というサブタイトルを載せていた。
そして10巻や15巻といった節目の巻ではちょっとアレンジしたものになったが、
20巻の時にサブタイトルを公募し、「いや〜ん!!20巻も続けるなんてH!!の巻」という
おマヌケなサブタイトルになった。作者は三重県・さるるる〜氏である。

 なんと、ジャンプ本誌に
投稿者の住所が載ってたことがある。

補足トリビア:今ではとても信じられないが、初期のJBSには
堂々と投稿者の住所が載っていた。とある優勝者も本名と住所が載っていた。
目的はファンレターとかいろいろだろうが、今は絶対無理だろう。

 同一人物が2つのペンネームで
同一レースでそれぞれ20点以上取ったことがある。

補足トリビア:レース途中でペンネームを変えると、両方のペンネームがランクインすることは
よくあることだが、どちらのペンネームでも20点以上取ったのは、
JBS2の8代目での風来坊氏(23点)→眠れない夜空氏(37点)のみである。
しかも後者ではベストテン入りまで果たしている。

 レースごとに
ペンネームを変えた常連がいる。

補足トリビア:JBS2の6代目4位のメジャーボーイ氏は、
7代目でたま(28点)、8代目でアジャパー船津(28点)と
レースごとにペンネームを変え、しかもそれぞれなかなかの成績を残している。
ちなみに9代目ではアジャパー船津(14点)のままであった。

 JBSの優勝インタビューが
集英社じゃなかったことがある。

補足トリビア:JBSで優勝すると、「集英社見学ツアー」という賞品があって
優勝者は集英社で優勝インタビューを受けてその様子が誌面に掲載された。
しかし、JBS1の8代目優勝者・土岐和耶氏と、10代目優勝者・ちゃん坊太氏は
「学校をサボって上京させるわけにはいかないから」という理由で、それぞれ現地での
インタビューとなった。土岐氏は香川県坂出市、ちゃん坊太氏は三重県である。

 JBS常連がゲームの登場キャラとして
「新桃太郎伝説」に登場したことがある。

補足トリビア:1993年に発売されたスーパーファミコンのゲーム「新桃太郎伝説」。
人気RPG「桃太郎伝説」の続編であるこのゲームには、「ほほえみの村・だじゃれ大会」
というイベントがあるが、そこに登場するキャラは全てJBS常連のペンネームをもじったもの。
全部で11人いる。JBS2の10代目からJBS3の2代目あたりの常連がほとんど。↓は、その一覧(敬称略)。

サクラン」…錯乱坊主  「オカドン」…岡戸孝宏  「オカダデ」…岡田です!
ハクシュ」…拍手はいらねえぜ  「ギンユウ」…吟遊奇人  「ササニシ」…笹西三択
ナンデモ」…なんでも消化  「テンキパ」…天気パンダ特攻隊  「イーヤダ」…いーやぁだっっ!!
ネコポン」…猫だまし!ぽん吉  「ポンポコ」…ぽんぽこりん

 JBSのレースで一番長かったのは
JBS1の初代レースである。

補足トリビア:意外にも、一番最初のレースが一番長く、全27週であった。
後にゴールが30号または新年1号になってからは、1レース20週から24週である。
最初は「ゴールは○号!」ということも書かれず、終盤になって「あと○週!」と書かれた。

 JBSが
ジャンプの真ん中あたりに掲載されたことがある。

補足トリビア:JBSの掲載位置といえば、一番後ろというのがお約束であった。
しかしJBS1の3代目レースで、ジャンプの真ん中あたりに掲載されたことがある。
1983年の49号から51号までの3週間は、なぜか真ん中あたりの掲載順だった。
52号で、何事もなかったかのように元に戻った。

 JBS終了後、局員は
宮崎シーガイアに行く予定だった。

補足トリビア:VTR10で京阪神、VTR20で日光に行った局員一行。
最終巻のVTR24では宮崎シーガイアに行った様子を掲載するはずだったが、
さくま氏の病気で行けず、VTR24には局員座談会が掲載された。

 ベストテンに入るほどの常連でありながら
VTR掲載拒否をした人がいる。

補足トリビア:ベストテンの特典がVTR1ページ独占になってからは発生してないが、
昔はVTR掲載拒否や「JBSを彩るスターたち」に原稿を送らない人というのは割といた。
特に、JBS1・4代目5位の塩化銅IX氏は、両方に掲載拒否をしたので、当時のジャンプでしか
ネタを確認することができない。

 判明しているうちでの、JBSでの最年少掲載は
7歳である。

補足トリビア:JBS3の6代目レース12号、NG大賞ミニマム特集にて掲載された
茨城県・なおちゃんは、掲載当時7歳であった。公式記録がある中では最年少。
ちなみにネタの内容は、子供が描くような(いや子供が描いてんねんけど)車のイラストに
「くるまにきをつけよう」と書かれているだけの意味不明系ネタであった。

  「桃太郎電鉄」の女湯イラストを
ミスJBS常連が描いたことがある。

補足トリビア:桃太郎電鉄といえば、さくま氏の代表作といえるゲームである。
初期の頃は、隠しモードとして女湯のイラストが入っていることがお約束であった。
最初の頃は土居氏が描いていたが、「スーパー桃太郎電鉄DX」では、
ミスJBS常連の水野遊佐(後に「水遊び」に改名)氏が描くことに。
この水野氏、実は当時、アニメ「クレヨンしんちゃん」の作画監督だった原勝徳氏。
そして次作の「桃太郎電鉄HAPPY」では、チョコバナナの常連さん3人が女湯イラストを描いた。
その3人とは、「サクラチトセ」さん、「るびぃ」サン、「パープルウォーム」さん。

 コミックス承諾ハガキの送り先は
現代書院という会社だった。

補足トリビア:コミックスにハガキを載せる場合、「載せてもいい?」という
承諾要請の往復ハガキが掲載予定者に送られてきた。
このハガキの返送先は、集英社じゃなくて現代書院という会社である。

 初期の迷作「すみえ三段腹デブ」のネタは
なんとマイナス4点だった。

補足トリビア:初期のレイアウター、青木澄江氏をからかった有名な替え歌
「すみえ三段腹デブ(「すみれ September Love」の替え歌)」を作った
三重県・愚蓮隊は、なんとマイナス4点を喰らった。
当時は1枚掲載で1点、恐怖のNGでも1枚マイナス1点だったので、
このマイナス4点というのがいかにすごいかわかるであろう。

 初期のJBS新聞は
バックナンバーサービスがあった。

補足トリビア:要するに、「載らなかったから持ってないJBS新聞を送ってもらえる」という
サービスがあったのである。これはうらやましい!!
JBS新聞は基本的に定期刊行だが、掲載されなければもらえないため、
間がとびとびになることも多かったため、こういう制度を作ったようだ。
もっともそれはJBS1の頃の話で、JBS2になる頃にはいつのまにかなくなったが。

 JBSは、ジャンプの人気投票で
最高7位に入ったことがある。

補足トリビア:…という、さくま氏の弁がJBS新聞に載ってた。
要するに、ジャンプの漫画(約20作品)や企画コーナーなどの
人気投票ランキングで7位に入ったことがあるということである。

 JBSの
カセット版が企画されたことがある。

補足トリビア:さきのアニメ化話より前に、なんとJBSのカセット版
(カセットというあたりが時代を感じる…)が企画されたことがある。
時に1985年頃。なんとチェッカーズなどで有名なポニーキャニオンから
発売されるという話があったのだ! 企画倒れになったらしいけど…。
ちなみに、内容は「わくわくだじゃれランド」の声バージョンとか、
歴代チャンプの対談とかが予定されていたらしい。

 実質上1つのネタだけで
ベストテンに入った人がいる。

補足トリビア:JBS1の2代目10位のMr.くえすちょん氏(名張市)は、
NG大賞に「4身合体かっちょえーロボ」というハガキ4枚使ったネタを
載せ(VTR1にも載ってます)、それだけで12点取ってベストテンに入った。
しかも、Mr.くえすちょん氏はそれ以外のネタ掲載はなく、ベストテン経験者で
一番通算掲載本数が少ない投稿者でもある。

 「きちゃなーい!」ウサギの
名前は「PIPI」。

補足トリビア:JBS2の初期にイラストで登場していた「きちゃなーい!」と叫ぶウサギ。
実はこのウサギは、茨城県・プールにおちたてんし氏の作品なのである。
そして正式な名前は「PIPI」というそうである。
ちなみにJBS1の10代目で、その年の干支にちなんだイラストを募集した時に
送られたイラストの一つを土居さんが気に入って使ってたらしい。

 初期のミスJBSコンテストは
あの堀井雄二氏がハガキ選考に加わっていた。

補足トリビア:初期(JBS1の頃)のミスJBSコンテスト黎明期は、選考者として、
局員以外にあの堀井雄二氏(ご存知ドラクエの作者)がいたらしい。
その頃はまだドラクエも出てなく、今ほど有名じゃなかったけど。

 市でなく町村在住者は
その郡名で表記していたことがある。

補足トリビア:JBSは、(居住地)・(ペンネーム)(年齢)で表記していた。
(居住地)は、市に住んでいる人はその市名、それ以外の町村在住者は
都道府県名で表記していた(例… 新居浜市・JRよっちー)のだが、
JBS2の初期の頃は都道府県名でなく、その町村が属する郡の名前で表記していた。
(例… 南海部郡・久寿米木元)
ちなみに、上記の南海部郡は、市町村合併で現在は佐伯市になっていたりする。

 JBS終了後、
JBSが一度雑誌で特集されたことがある。

補足トリビア:1998年頃、宝島社から出ていた(今は廃刊)
「COMIC GON!」という雑誌で、ジャンプ放送局が特集された。
特集号の前の号で「投稿戦士だった人のハガキ募集!」とかやってて、
特集号では実際に元投稿者やファンのハガキがちらほら載っていた。
この「COMIC GON!]は、なつかしのマンガについていろいろ載ってた
雑誌であり(今の2ちゃんねる懐かし漫画板に通じるものもある)、
その一環としてJBSの特集をやったのではないかと推測できる。

 ロケット・トリプル・スーパーアタック・Dr・コブラ・
おむすび山がほしい人のウイングマンは山本寛斎の息子の
にんべんの味かつおくんポコポコポコタンは朝潮にキスをした
クラッシャージョウはガンダムを越えるか、そしたらゼイ肉
だらけの青木さんはササニシキのトシリカリ・幻魔大戦は
プラネタリュウムを食べた、アハアハアハアハ…

というペンネームの人がいた。

補足トリビア:JBS史上最長のペンネーム。
JBS1初代レースの終盤で、ペンネームの長さだけでNGに載った。
この直後、ペンネームの字数制限(最初10文字、後8文字)ができたのである。

 ジャッキー・チェンが
JBS編集部に来たことがある。

補足トリビア:土居さんが大ファンだというジャッキー・チェン。
ご存知、世界的アクション映画スターである。
なんでJBSにわざわざ来てくれたのかはよくわからないが。
ちなみに、JBSを訪れた有名人は河合奈保子・石川秀美・サンプラザ中野・
長山洋子(アイドル時代)などがいたりする。

 「JBS新聞」は最初
「マクサ新聞」という名前で発行された。

補足トリビア:掲載者にもらえる景品の一つに「JBS新聞」があるが、
発行当時は「マクサ新聞」という名前で3号まで発行された。
ちなみに「JBS新聞」は、54号まで発行された。

 初期のJBSでは盗作が発覚すると
永久追放された。

補足トリビア:JBS1の2代目で、掲載されたネタが盗作だと発覚した
投稿者2人が、永久追放の措置を受けた。もちろん永遠に載らないってこと。
その後も何度かそういうことが起こったようである。
ちなみにジャンプ団でも点数没収とかあった。

 JBSで一番ハガキを集めたのは
「JBSクエスト」であった。

補足トリビア:47都道府県のオリジナルキャラを、合計100のポイントを
能力値として振り分けてオリジナルプログラムで競う「JBSクエスト」は
JBSの番組としては最高の、8万枚というハガキを集めた。

 「ミスターJBSコンテスト」というのを
やったことがある。

補足トリビア:タイトルの通り、男キャラのイラストを募集した「ミスターJBSコンテスト」。
JBS3の4代目レースで一度だけ募集した。テーマは「男勇者」。
大方の予想通り、少女漫画系の耽美なイラストが集中した。
そして意外と、普段載っているミスJBS常連はほとんど載らなかった。

 ちさタローの口癖は
投稿者から募集したものである。

補足トリビア:JBS2の9代目・10代目頃の「ほんのチョイ」で募集した。
「うれチチ! くやチチ!」とか「チチショー!」は投稿者の作品である。

 JBSに
ハガキを横に載せていた番組があった。

補足トリビア:今の「じゃんぷる」では当たり前の「ハガキ横掲載」だが、
JBSではほとんどの番組が「縦掲載」であった。
しかし、JBS3の2代目レースで募集した「JBS衛星放送第一」では
ハガキ横掲載であった(内容は、要するにテレビ番組のパロディ)。

 さくま氏は
「横浜が優勝したら勝ち数分のスーパーファミコンを
プレゼントするぞ!」と公言したことがある。

補足トリビア:JBS3の4代目での話。あまりにも「ほんのチョイ」で
横浜ベイスターズのことをいじられたさくま氏は、(たぶんほぼ勢いで)
「もし横浜が優勝したら、勝ち数(約80)分のスーファミをプレゼント!」と
言い放った。
当たり前の話だが、もちろんその野望は実現することなく終わった。
(1998年に横浜ベイスターズは優勝し、日本一となった)

 JBSには
アニメ化の話もあった。

補足トリビア:さくま氏によると、本当にJBSのアニメ化を持ちかけられた
ことがあるらしい。どういう風に放送する気だったのかは未だに謎。

 最終レースのベストテン入り賞品は
かの悪名高いバーチャルボーイだった。

補足トリビア:優勝者は、当時高価だったプレイステーションだったのだが
2位〜10位はバーチャルボーイが渡されたらしい。
確かに当時は賞品に適したゲーム機があまりなかったが、
なんとも悲しい話ではある。

 JBS新聞とバッヂの発送が
4ヶ月も遅れたことがある。

補足トリビア:JBS3の2代目レースの時、通常なら毎月送られるバッヂが
4ヶ月以上も放置されていたことがあった。
単なる発送ミスだったらしいが、後にそのお詫び文と、桃太郎のデカバッヂが送られた。

 掲載されるともらえるJBSバッヂには
優勝者のイラストが載っていたものもあった。

補足トリビア:私の記憶では、「暴風四郎」氏から「いんぐりもんぐり」氏までの
歴代優勝者はみんなバッヂになっていた。
当時活躍していた常連さんはバッヂになることを夢見ていたに違いない。

 1枚の作品で一番点数が高かったのは
「顔!顔!顔!」の8点である。

補足トリビア:JBS3の3代目、4代目に3回掲載された「顔!顔!顔!」という
番組は、要するに「面白い顔」を載せる写真番組であった。
ここで「一番面白い顔」に認定されると、なんと1枚で8点をゲットできた。

 読者投稿ページの単行本最多巻数を記録しているのは
ジャンプ放送局ではない。

補足トリビア:四国は香川県の地方情報誌「TJ Kagawa」に連載されていた読者投稿ページ
「笑いの文化人講座」は単行本全25巻(JBSは24巻)である。2004年に完結したらしい。

 NG大賞9枚独占を果たしたのは「ちょろさんの妹」さんだけだが、
8枚独占を果たしたのは「民川裕司」氏と「侍ヴィクトリー」氏の2人。

補足トリビア:民川氏はJBS1で、侍ヴィクトリー氏はJBS3で達成。

 VTR24巻に掲載されている最終ランキングには、
福井県と徳島県の人だけが載っていない。

補足トリビア:山梨・梶比樹出原氏、高知・上田満春氏、宮崎・仮面貴族氏、鹿児島・薩摩隼人氏などがいるが、
福井県と徳島県の人は誰もランクインしていない。

 VTR4〜24のベストテン1ページ独占は
必ず169ページから180ページに掲載されている。

補足トリビア:ベストテンが10人の場合は優勝者が171ページになるので、171ページは投稿者の憧れだった。

 「鈴木いがぐり頭」氏の本名は
鈴木ではない。

補足トリビア:個人情報なのでここには書けないが、最終レースの「僕たちの約束」で
本名を書いていた。鈴木ではなかった。

 JBS3の初代レースでペンネームを変えたためにベストテンを逃したのは
2人いる。

補足トリビア:JBS3の初代でベストテンを逃したといえば、哀☆戦士氏(哀☆戦士:14点+アンチャン:35点)
がとっても有名だが、実はゆうみん物語氏も同様にペンネームを変えたがために
ベストテン入りを逃した(道翔:12点+ゆうみん物語:34点)。

 JBSが終わることを最初に告知したのは
JBS新聞である。

補足トリビア:JBS3の6代目レース半ばに、掲載された人だけに送られた「JBS新聞」において、
「次回レースでJBSは終了します」といった文章が掲載された。
その後、本誌の「ほんのチョイ係」において、正式に終了が告知されたのである。

 こち亀の作者である秋本治氏は、
JBS掲載経験がある。

補足トリビア:最終レースの応援ハガキに掲載。
本人であることを示すため、(本物)という注釈があった。

もどる