よろず争鳴



「共産党」は消費期限切れである(未完成稿)2009年8月

 
『共産党宣言』と共産党

 
そもそも、世界の歴史上、共産党はいつ出現したのか。マルクス・エンゲルスの有名な『共産党宣言』が発表されたのは1848年である。そこで、この時から地球上に共産党が誕生したと考えている人が、意外に多い。しかし、これは大きなまちがいである。
 たしかに、当時、ドイツ人亡命者によってつくられた「共産主義者同盟」というのが存在し、ロンドンに中央委員会が置かれていた。だが、これは政党ではなく、オーギュスト・ブランキの影響下にある秘密結社的労働者組織にすぎなかった。ブランキは「組織された革命党および大衆的階級闘争の役割を否定し、革命的情勢の存在を考慮せずに陰謀的な手段で権力の奪取をくわだてる一揆主義的・冒険主義的傾向」(新日本出版社『新編 社会科学辞典』―これは、あくまで、「共産党」的ブランキズムの定義である。大衆的な労働者党を組織するだけの民主主義的条件のなかった当時、共産主義革命をのぞむとすれば、いきおいブランキ的方法しか思いつかなかったのは歴史の必然である。ある意味で、マルクス主義の誕生にはブランキズムの破たんが歴史的前提であったといえよう)の持ち主であったが、パリ・コンミューンを含め19世紀のフランスの労働運動に大きな影響を与えた。
 はじめ、マルクスやエンゲルスは、ブランキの考え方に反対だったため、この団体に関係していなかった。
そのご、ブランキズムからの脱皮の必要性に迫られた「共産主義者同盟」がマルクスとエンゲルスに「同盟」への加入をつよく要請した結果、マルクス、エンゲルスは「同盟」に加入し、「同盟」の委託を受けて『共産党宣言』を著した。 『共産党宣言』の初版題名が文字どおり Manifest der Kommunistishcen Partei(共産党宣言)であったのが、1872年の第2版からは Kommunistischen Manifest(共産主義者宣言)となったのもそうした事情の反映であって、本来は『共産主義者宣言』というのが正しい。
 「ヨーロッパに幽霊が出る―共産主義という幽霊である」という有名な書き出しにはじまる『共産党宣言』は、大内兵衛・向坂逸郎訳岩波文庫版で、本文にして50ページの小冊子である。いわずもがなだが、本文の中には「共産主義」「共産主義者」ということばは随所に出てくるが、「共産党」という表現は一個所も出てこない。
 たとえば、「第二章 プロレタリアと共産主義者」をみてみよう。冒頭、「共産主義者はプロレタリア一般に対してどんな関係に立っているか?」との問いを発し、「共産主義者は、他の労働者政党に比べて、特殊な党ではない。/かれらはプロレタリア階級全体の利益から離れた利益をもっていない。/かれらは、特殊な原則をかかげてプロレタリア運動をその型にはめようとするものではない。」と答えている。
 簡潔で、しかも、こんにちなおくみとるべき含蓄にとんだ文章である。
 ここでいわれている重要なことは、第一に、「他の労働者政党」という表現で、労働者階級に基礎を置く複数の労働者政党の存在を自明の前提として認めていることである。しかも、共産主義者の党はこれら他の労働者政党とくらべ「特殊な党ではない」と断言している。のちの「マルクス・レーニン主義」が「労働者階級の最高の組織」「前衛党」と称し、一党独裁への道をたどったのとくらべ、雲泥のちがいである。
 第二に、そのご世界の歴史上政権党となったすべての共産党(現在の中国、ベトナム、キューバをふくむ)がまさに特権階級の党となり、党の独自の利益・党官僚の専横的な利益を露骨に追い求めたのとは対照的に、「プロレタリア階級全体の利益から離れた利益」をもたないと明言している点である。
 第三に、そしていちばん重要なことは、「特殊な原則」をかかげてプロレタリア運動を「その型にはめようとするものではない」とのべている点である。くわしくは後述するが、ロシア革命のなかで生まれた「共産党」ほど「特殊な原則」をかかげ、労働者階級のみならず全人民を「その型」にはめ込んだ政党は現代史に例をみない。その「特殊な原則」とは、「プロレタリア独裁」(現実には共産党独裁→個人独裁)と、「どのような分派行動」もゆるさない「民主集中制」(現実には党内のいっさいの異論を圧殺する「鉄の規律」)である。日本共産党は、「プロレタリア独裁」こそなしくずしに取りさげたものの、「民主集中制」にかんしては、しっかりとロシア革命の母斑(ぼはん)をひきついだままである(これについても、のちに詳述する)。

 
レーニン 共産党の誕生
  

 では、共産党はいつ世界史に登場したのか。1918年3月6-8日に開かれたロシア共産党
)第7回大会最終日に、「本大会は、今後わが党(ロシア社会民主労働ボリシェヴィキ党)をロシア共産党と呼び、括弧に入れて『ボリシェヴィキ』とつけくわえる」(大月書店版レーニン全集以下「全集」と略す−27巻139ページ)と決議された瞬間からである。
 レーニンは、党名変更に関する報告のなかで、その理由をあらまし次のようにのべている。すなわち、@「社会民主党」という場合の「民主」は古い「ブルジョア民主主義」の概念であり、ロシア革命の現実はこの古い民主主義をのりこえ、「かつて…どこにも存在したことのない民主主義の型」に到達した、Aこの「型」にはパリ・コンミューンのほかには手本はない」、B社会主義的改造をはじめるにあたって」「終極の目標、すなわち、共産主義社会をつくりだすという目標を、はっきりとかかげなければならない」、C「党名変更するもっとも重要な論拠」は、「すべての…古い公認の社会主義党は、…労働者の革命的社会主義運動にたいする真のブレーキ、真の障害物になっている」、というものである。
 さて、これから、レーニンの論拠の検討に移るわけだが、そのまえに、ひと言ことわっておきたい。ベルリンの壁・ソ連の崩壊以後、世界的に、ロシア革命とレーニンの役割を120%否定する傾向がひろがっているが、筆者はこうした考え方には与しない。ロシア革命の影響なしには、こんにち北欧諸国にみられる高度福祉国家もなく、資本主義国全般における労働者保護・福祉政策もない。ロシア革命とこの革命でレーニンが果たした役割は、いぜん世界史的意義をもっている。ロシア革命とレーニンは、ひとまとめにごみ箱へ投げすてられるべきものではなく、まさに、弁証法的に止揚されるべき対象である。





  プロレタリア独裁と共産党

 
コミンテルン(国際共産党)と民主集中制
 
 コミンテルン日本支部日本共産党

 国際共産主義運動と日本共産党

 「ベルリンの壁」と共産党

 歴史を正しく終わるために




「確かな野党路線」は分裂主義・敗北主義路線(市民メディア・IT新聞 2007/08/10付)
  
 
参院選は自民・公明の歴史的大敗、民主の圧勝という結果となり、ともあれ日本の二大政党制が新しい段階を迎えた。
 そういうなかで、日本共産党は選挙区1、比例代表1の合計2議席を減らし、非改選の4議席とあわせ9議席から7議席に後退した。7月30日付の常任幹部会声明「参議院選挙の結果について」は、「日本共産党は、比例代表選挙で3議席を獲得しました。これは、1議席減の結果ですが、得票数では、前回及び前々回の得票を上回る440万票(7.48%)という地歩を維持することができました」とのべ、後退・敗北を認めず、あたかも現状維持ができたかのように取りつくろっている。だが、宮地憲一氏のホームページの分析によれば、投票率・有権者の増加からみて、共産党は本来223,046票増えていなければならず、前回比45,364票しか増えなかったのでは、実質、177,682票の後退という。いずれにせよ、「確かな野党という」訴えが有権者の心に響いていたらこんなみじめな結果にはならなかったろう。主張が有権者に受け入れられなかったという点で、これはまさに敗北以外のなにものでもない。
 共産党は、こんどもまた抜本的な自己批判・敗因分析はおこなわず、不破・志位・市田氏ら一にぎりの党特権官僚の名誉と保身のため、ごまかしの選挙総括をおこなうのだろう。すでに前記の常任幹部会声明のなかで、「東京、大阪、京都などで得票を増やしました」とのべているのが、あいもかわらぬその手口である。いくつかの要因により得票が伸びた選挙区だけを取りあげ、他の選挙区でもこれらの選挙区のように地方組織や支部がたたかっていれば、「全国的にも勝てたはずだ」という奇弁である。
 共産党の後退は、もはや「歴史的趨勢」であって、あれこれの選挙戦術のレベルで論ずべきものではない。そこで、かねて懸案になっていた本稿について、とりあえず第1稿を提示することとした。目下、資料を収集中で、論点の完全な展開は期しがたいが、とりあえず、この問題で私が日頃あたためている考え方の骨子だけでもあきらかにしておきたい。
 そもそも、政党とはなにか。こういう場合によく使われる『広辞苑』によれば、「共通の原理・政策をもち、一定の政治理念実現のために、政治権力への参与を目的に結ばれた団体」とある。1989年2月10日付の奥付をもつ、新日本出版社発行『新編社会科学辞典』によると、「資本主義社会における階級闘争の発展の産物。共通の理念と政策で結合される階級のもっとも活動的な人びとの結集体で、政治権力の獲得、または維持を根本的な目的とする政治集団」とある。自明なことだが、権力の獲得を抜きにしては政党について語る意味はなく、権力の獲得をめざさない集団はせいぜい「政治グループ」に過ぎず、「政党」とはいえないのである。
 日本共産党は、近年、各種選挙のたびごとに「確かな野党」と唱え、この「確かな野党」の前進こそ日本の未来を切り開くと叫びつづけ、民主党はもちろん、社民党、新社会党を含めすべての野党を批判・攻撃してきた。
 結果はどうか。「確かな野党」の躍進がみられなかっただけでなく、日本の左翼陣営全体が停滞・後退をよぎなくされてきた。いまや「最大の政治勢力」といわれる無党派層は、こうした左翼陣営の低迷ぶりに愛想をつかし、変化・変革の望みを二大政党制の一方の担い手である民主党に託さざるを得なくなっている。それが、今回の参院選の結果にほかならない。
 今回の参院選でも、とりわけ前半戦では、共産党はもっぱら民主党批判に精力をついやした。「自民党と少しも変わらず、それより悪い」という決めつけである。それは、かつて、反ファシズム人民戦線戦術を採用する以前のスターリン時代に国際共産主義運動のなかではびこっていた「社会民主主義主要打撃論」をほうふつとさせるほどである。「社会民主主義主要打撃論」とは、労働者階級が共産党支持に目ざめないのはその前に社会民主主義が立ちふさがっているからであり、運動のなかで主要な打撃を加えるべきは社会民主主義であるというセクト的戦術を指す。ヒトラー台頭期、ドイツ共産党もヒトラー攻撃よりドイツ社会民主党攻撃に力を注ぎ、結果としてヒトラーの権力掌握に道を開いてしまった。今回の参院選における共産党の「確かな野党」路線は、さしずめ日本版「民主党主要打撃論」とでも言うべきものである。
 ところで、議会制民主主義のもとで政党が政治権力を獲得するためには、道は二つしかない。ひとつは、自らが過半数を制する第一党となることである。それが不可能なら、現に存在する諸政党の組み合わせ・連合により多数派を形成し、この多数派の手に政治権力をにぎることである。日本の現状で、共産党が第一の道を選べる余地は絶望的に皆無である。だとしたら、第二の道、つまり諸政党の組み合わせで多数派を形成し、共産党もこの戦列に一員として加わるという方法しかない。
 参院選を前に5月17日に開かれた共産党第四回中央委員会総会への幹部会報告で志位委員長は、自民・公明批判につづいて、民主党に関し三中総を引用しながら、「日本の進路にかかわる重大問題について、民主党が自民党政治と同じ流れに合流し、財界からも、アメリカからも信頼されるもう一つの保守政党への変質をとげた」「今日の民主党は、自民党政治の『三つの異常』を共有する政党であり、政治の基本でどちらかが『よりまし』とはいえないのであります」と決めつけている。
 はたして民主党は自民党と同列かそれ以上の反人民的政党なのだろうか。だとしたら、日本の前途は絶望的であり、今回の参院選における国民の民主党選択もとんでもない過ちを犯したことになる。常任幹部会声明が「今回の選挙での自公政治にたいする国民の審判は、それにかわる新しい政治の方向と中身を探求する新しい時代、新しい政治的プロセスが始まったことを意味するものです」とのべていることとも矛盾する。
 共産党は別格として(上意下達のどうしようもない一枚岩政党だから)、どの政党も内部に矛盾をはらんでいる。自民党内にさえ加藤紘一氏のように、「専守防衛」の立場から、『我、自衛隊を愛す 故に、憲法9条を守る 防衛省元幹部3人の志』(かもがわ出版)を推薦している人もいる。公明党ですら憲法9条改悪には反対せざるをえない。民主党にも、菅代表代行のような市民運動・護憲派もいれば、前原グループのように自民党そこのけの改憲・集団的自衛権推進派がいる。8月7日付朝日新聞(大阪本社版)の「朝日・東大調査」によれば、「(民主党は)これまでの調査では衆参を問わず6〜7割の議員が改憲賛成派だったが、今回、改憲賛成派が4割を割った」と指摘している。世論の動向次第で政党というものは変わっていくものなのである。だからこそ、多数派形成への望みもあるのだ。
 要は、こうした各党派内の矛盾を正確につかみ、どうしたらこうした矛盾を顕在化させることができるかを探求する努力と能力である。それを、「正しいのはわが党だけ。他党はすべてだめ」(「確かな野党」というのは、正確にはそういう意味である)と十把ひとからげに切って捨てるような児戯に類するやり方では、多数派形成はもとより、みずからの生きのこりすら危険にさらす結果となろう。その意味で、「確かな野党」路線は分裂主義・敗北主義の路線である。それは、多数派形成に逆行する分裂主義であり、政権への展望をあらかじめ放棄する敗北主義である。
 かつて、共産党は「○○年代の早い時期に民主連合政府を」というスローガンを掲げたこともある。党綱領に「よりましな政府」という規定があったこともある。しかし、最近はとんとそういうことばを聞いたことがない。共産党が弱小化し、もはや統一戦線の指導権をとれる可能性がなくなったためだろうか。
 私は日本のそう遠くない将来への希望として、社民党、新社会党、共産党、無党派左翼が一つに合流し、単一の社会民主主義にもとづく左翼政党(名称は「共産党」以外ならなんでもよい)が生まれることを望んでいるが、現状では、そこまで到達する以前に、少なくとも国会レベルでは共産党の議席がゼロになるのではないかと真剣に憂えている。そんなことにならないためにも、この参院選での後退・敗北を、上意下達ではなく下からの点検により、しっかり総括してもらいたいものである。(2007年8月7日)

 

防衛汚職疑惑、前原氏は去就を明確にせよ(市民メディア・IT新聞 2007/12/11)

 守屋前防衛次官の逮捕により、防衛産業をめぐる日米の政・官・業にわたる構造的汚職の一端が明るみに出ようとしている。どこまで解明が進むかは、検察当局の今後の出方に待つしかないが、どうやら、外務省管轄の社団法人「日米平和・文化交流協会」が、日米防衛利権に絡む情報交換・橋渡し・フィクサー暗躍の舞台裏となっているのではないかとの疑惑が深まりつつある。先日は福田首相が元官房長官としてこの4月まで同協会の理事をしていたことも問題にされている。

 この「日米平和・文化交流協会」なるものは、前身の「日米文化振興会」が文化交流に比重を置いて活動してきたのに対し、とみに日米の軍事・防衛産業の関係者が理事に名を連ねるようになったことで注目されている。しかも、理事会といっても名ばかりで、たとえば平成18年度第2回理事会(4月9日、赤坂東急プラザ2階中華料理「星ヶ丘」で開催)の場合、40数人いる理事のうち出席したのはわずか10人、委任状が24人、他7名は欠席である。

 出席メンバーは、瓦力(元防衛庁長官)、玉沢徳一郎(元防衛庁長官)、井上喜一(元防災担当相)、西山淳一(三菱重工航空宇宙事業本部副本部長・防衛庁OB)、前原誠司(前民主党代表)、佐藤達夫(元内閣法制局長官)、曽良道治、米津佳彦(山田洋行社長)、木下博生(元中小企業庁長官)、秋山直紀(常勤・専務理事)である。守屋前防衛次官逮捕でその名がしばしば登場している山田洋行米津社長、フィクサーではないかと取りざたされている秋山専務理事の参加が目をひく。

 ところで、民主党の前原誠司氏がなんでこの協会の理事をしているのだろうか。前原氏は、朝日新聞12月6日付で、参院で審議中の海上給油支援特別措置法案について発言し、「会期延長せずにやめた場合、インド洋での活動は長い中断になる。これで解散されたら、うちの党は困る。国益を考えているのかと(批判される)。わたしはどうやって選挙演説したらいいかわからない」「国連のステータスを上げることは重要だが、何が何でも国連の決議がなかったら日本は行動しない、という考え方をとるべきではない」などとのべている。

 だが、「海上給油は国益ではない。廃案に追い込む」というのが民主党の公式の立場ではないのか。また、「国連の決議がなくても行動する」ということは、アメリカの起こす戦争に何でも協力するということではないのか。

 前原氏は、改憲論者であり、イラク戦争支持・アメリカとの集団的自衛権行使推進派である。前原氏個人がどのような見解をもとうが、それこそ「カラスの勝手でしょ」である。しかし、いやしくも次の政権をねらう公党の副代表の発言としてはけっしてこれを見のがすことはできない。

 前原氏はこれまでも自民党路線にすり寄る発言を繰り返してきたが、あくまで初心をつらぬく気なら、いっそこの際、副代表を辞任し、党籍も自民党に移籍してはどうか。そうすれば、「どうやって選挙演説したらいいか」などと悩む必要も解消するではないか。いま去就を問われているのはまさに前原氏自身である。


福田新内閣は速やかに総選挙の実施を(市民メディア・IT新聞 2007/09/27)

 朝日新聞9月26日付は、「『1月解散』のすすめ 福田新内閣」との社説を掲げた。私は、これには反対である。

 この社説はいろいろのべているが、そのポイントは福田内閣に政府予算案編成までやらせ、民主党も独自の予算案を示したうえで、来年1月に解散して国民の審判に問え、ということである。

 だが、これは、逆にいうと、来年1月までは福田政権の存続と権能を認めるということである。安倍前政権も選挙の洗礼を受けてない内閣だったが、福田内閣はその安倍政権が直近の参院選で大敗し、自公政権が参院では少数勢力となった後の「引き継ぎ」内閣であり、この内閣が真っ先にやるべきことは、現在、果たして国民の信を得ているかどうか、選挙で問うことである。

 まさに、同社説も言及しているように、新内閣は「選挙管理内閣」以外の何物でもあってはならない。予算編成権は、いうまでもなく、日本国憲法第86条「内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない」に基づき、内閣が有する最も重大な権能の一つである。国民の信を得ているかどうか定かでない内閣に予算案編成をやらせること自体、憲法の精神に反しないか、大いに疑問のあるところである。

 マスコミの報ずるところでは、福田内閣の顔ぶれは「長期政権」を頭に描いて組閣したものだといわれる。即時解散・総選挙など、てんで頭にないらしい。主権者である国民が参院選で示した意思を真っ向から無視した政治姿勢である。

 同社説も認めているように、「自民党に政権を引き続きゆだねるのか。福田首相を信認するのか。それとも政権交代か。有権者の声を聞くのが、政治への信頼を取り戻す王道」であり、いま求められているのは可及的速やかな解散・総選挙である。

 年金問題、格差問題、財政運営、その他、内政に関する自民、民主両党の基本政策を知りたいというのであれば、それこそ、両者がマニフェストに予算大綱を掲げて争えばすむことである。なにも福田内閣に予算編成をさせるには及ばない。朝日の「社説」はあまりにも世論誘導型である。

イラク特措法、民主党は正論つらぬけ(市民メディア・IT新聞 2007/09/22)
 11月1日のイラク特措法期限切れを前に9月19日、国連安保理では、海上自衛隊によるインド洋上の給油活動に国際社会が感謝しているかのような「前文」をつけた決議が、ロシア一国の棄権のみで可決された。
 町村外相は、さっそく、鬼の首でも取ったかのように、「国連決議がないという民主党の反対根拠はなくなった」「(民主党は)国際的な努力や意見に、もうちょっと敏感になってもらいたい」と勢いづき、与謝野官房長官は「全体の考え方の整合性をどうするかは民主党に課せられた宿題だ」とかさにかかった発言をしている。「マンガ坊や」の麻生太郎自民総裁選候補も、「ロシアはこれまでもいろんな決議に反対してきている」と、ロシア・ショックをやわらげようと懸命である。
 だが、当の町村氏が外務省内で記者団にたいし、日本の国連代表部が米・英・フランスなど安保理メンバーに決議採択を求めてきたこと、町村氏本人も9月7日にシドニーでライス米国務長官と会談した際、謝意を盛り込むよう要請したことを明らかにしている。なんのことはない、日米合作による自作自演の茶番劇である。
 ところで、今回のような安保理決議は、そもそも、アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)の駐留期間延長のため、安保理が毎年おこなっている決議である。この決議自体、真にアフガン情勢の安定化とテロ防止に役立っているかどうか再検討すべき時期に来ていると思う。それはそれとして、このような性格をもつ決議本文の内容と、アメリカ主導のもとに有志でおこなわれている「不朽の自由」作戦(OEF)とは、本来、無関係なものである。これまでの安保理決議でも両者が関連づけられることはなかった。
 ロシアのチュルキン大使は、棄権にあたり、「OEFは国連の枠外でおこなわれているもの」「決議は国連の特定の加盟国の国内事情を優先させたもの」と批判しているが、当然の反発である。
 防衛省によれば、海上自衛隊の給油活動は、2001年12月の開始以来、今年8月末までに、計11ヵ国の艦艇に計777回、約48万キロリットル(220億円相当)おこなわれたという。だが、この油がほんとうにテロ防止に役立っているのか、イラク戦争にも使われているのではないかとの疑問の声も多い。
 220億円という金額は、いうまでもないが、われわれが払った血税の一部である。それなのに、どこの国のどの軍艦にどれだけ給油され、その油がどこへ行き、なにに使われたのか、「軍事機密」の名のもとにいっさい情報公開されていない。納税者として、こんなばかげた金の使い方を見のがすわけにはいかない。
  しかも、肝心のアフガン情勢は、先月国連に提出されたNATO事務総長の報告でも、南部を中心にテロ攻撃が昨年同期の2倍に達している。北部を中心に約3500人の兵力を派遣しているドイツは、これまでに30人近い犠牲者を出し、国内世論は撤収論が大勢を占めているという。出口が見えないどころか、逆にタリバン勢力を拡大し、テロの温床を育てていると言っても過言ではない。
 民主党は、「武力でテロを根絶することはできない」との立場をとっている。まことに正論である。アフガンやイラクで武力による制圧に狂奔する限り、テロはなくならない。それどころか、イスラム教対キリスト教という、中世の十字軍戦争を思わせるような抗争に世界を巻き込む恐れさえある。その意味で、民主党がその正論を貫徹することは、民主党という枠を越え、日本の国益、世界の共通の利益につながる。ここのところは、民主党のがんばりに大いに期待したいところである。


自作自演の給油「謝意」決議(朝日新聞大阪本社版「声」欄 07.09.23)
 11月1日の「テロ特措法」の期限切れを前に、海上自衛隊の給油活動に対し、国際社会が感謝しているかのような前文を加えた国連安保理決議が19日、可決された。ロシアは棄権した。
 さっそく、町村外相は鬼の首でも取ったように、「国連決議がないという民主党の反対根拠はなくなった」と勢いづいている。だが、町村氏当人が認めているように、これは今月7日のシドニーでの日米外相会談で、ライス米国務長官に「謝意」を盛り込むよう頼み込んで仕組んだ、日米合作の修正である。
 今回の安保理決議本文は、アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)の駐留期間延長のため、毎年おこなっているものである。米国主導の有志による対テロ作戦「不朽の自由」(OEF)とは関係ない。
 ロシアが「海上阻止活動は国連の枠外でおこなわれているもの」「決議は国連の特定の加盟国の国内事情を優先させたもの」と批判したのは、正論である。
 給油が果たしてテロ防止に役立っているのか疑問の声も多い。自民党は自作自演のこそくな茶番劇をやめ、まず、給油の実態の情報公開をおこなうべきである。


説得力欠く前原「国益」発言 (市民メディア・IT新聞 2007/08/15付)

 前原誠司民主党前代表は、12日のテレビ番組で、11月1日で期限が切れるテロ対策特別措置法の延長問題について、「テロとの戦いから日本が抜けるのは国益に反する」と言明した。
 これに先立ち民主党の小沢代表は、シーファー駐日米大使との会談で「アフガン戦争はブッシュ米大統領が『アメリカの戦争だ』と言って、国際社会のコンセンサスを待たずに始めた。日本と直接関係ないところで、米国あるいは他国と共同作戦はできない」と延長支持を断っている。まことに正論である。
 「テロとの戦い」というが、現実はアメリカのアフガン・イラク戦争支援である。しかも、アフガンではテロ鎮圧どころか、タリバンがますます勢力を伸ばす結果となっている。イラクに至っては、いつ果てるともない内戦の泥沼から抜け出せる見通しが立たず、逆にテロリストを産む温床となっている。
 しかも、インド洋上の給油の実態は、日本国民の血税が使われていながらなんら情報開示されていない。まったくのブラックボックスになっており、「無料ガソリンスタンド」とまでいわれている。
 前原氏は「75ヵ国も参加している」と自説を根拠づけているが、その大部分はアメリカの経済援助を当て込んだ小国である。いずれにせよ、問題の本質は、参加国の数ではなく、テロ対策として真に国際的利益にかなった有効なものかどうかである。
 こんにち、アメリカ国内ですら、ブッシュのアフガン・イラク戦略には疑問が投げかけられている。そんな時期、前原発言ははなはだ説得力を欠き、ためにするものと言わざるをえない。
 前原氏は積極的な改憲論者であり、集団的自衛権の推進論者である。その限りでは自民党の改憲派と大差ない考え方の持ち主である。
 参院選の結果、自民党が国会運営でも苦境に立たされ、シーファー大使の面目もまるつぶれになっているいま、メディアがことさら前原氏をかつぎだす意図はなにか。民主党内の足並みを乱し、国会決議をアメリカの立場に「配慮したもの」にしようという思惑からか。だとすれば、「前代表」というだけで、この時期前原氏にやたらと発言の場を提供するメディア自体もその見識が問われなければならない。


民意は「ノー」 早急に解散を(朝日新聞大阪本社版「声」欄 07.08.08)

 参院選の結果は明らかに安倍政権にたいする不信任である。伝えられるところによると安倍総理は開票前から「投票結果のいかんにかかわらず続投」との意思を固めていたという。こんなに民主主義と国民主権を無視した話はない。
 「私の国造りはスタートしたばかりで、総理としての責任を果たしていかなければならない」というがその理由らしい。
 だがこれでは「ご批判、ご指摘は率直に受け止めて農林水産行政に取り組んでいきたい」と言っていた赤城前農水相の辞任前の「反省」とどれほどの違いがあるのか。国民は「美しい国造り」「戦後レジームからの脱却」など、美辞麗句で飾りながら格差社会、改憲への道をひた走る安倍政治の前途に不安と危険を感じ、「ノー」を突きつけたのである。
 まぎれもなく「ストップ安倍政治」こそ投票結果に示された国民の意思である。こうなった以上、速やかに衆院を解散して民意を問い直す以外にない。あくまで居座りを続けるならば、国民は次の総選挙で改めて安倍自公政権に鉄槌を下すだろう。


かけがえのない誠実な人−池田正枝さんの孤独死を悼む(07.01.19)
 
昨年12月4日、一人の誠実な女性が亡くなった。女性の名前は池田正枝さん、享年84歳だった。奈良県生駒市の自宅で、だれにもみとられることなく亡くなられた。死後4日目に、郵便物がたまっているのをいぶかった隣人により発見されたという。
 わたしがこの事実を知ったのは、数日前、このホームページに載せる材料をさがしながら、インターネットで韓国の各紙を閲覧していたときだった。偶然、東亜日報日本語版1月15日付に、「『懺悔の年賀状』これからは天国から送ります 池田政枝(正枝の誤り)さんの一生」といいう見出しを発見した。 池田さんと知り合ったのは、わたしが『週刊金曜日』で仕事をしていたころ、投書かなにかが縁でお便りしたのが始まりである。以来、7、8年にわたり、年賀状はもとより、折にふれてお手紙をいただいていた。しかし、一昨年、「82年と3ヵ月」という齢を刻んだ年賀状を最後に、お便りが途絶えていた。
 池田さんは、戦時中、ソウルの芳山(パンサン)小学校で日本語を教えていた。日本の「皇国臣民論」に心酔し、あの戦争を正義の戦争と信じて疑わなかった池田さんは、1944年、「女子生徒をできるだけ多く富山の軍需工場に送れ」という朝鮮総督府(当時の日本の支配政庁)の指示を積極的に実践した。「日本に行けば、おなかいっぱいご飯も食べられるし、女学校にも通える」という彼女の誘いに乗って、小学生6人が、翌年3月、「勤労挺身隊」の少女100人余とともに、ソウル駅で「涙の列車」に乗り、日本へ向かった。池田さんが自分のしたことがどんなことだったかを知ったのは、敗戦後のことだった。1945年8月、池田さんは自分の送り出した教え子たちを探しに出た。6人のうち5人の帰国は確認できたが、教え子らは「日本であったことは考えたくもない」といい、彼女に会うことを拒絶した。
 1945年12月にようやく日本に帰った池田さんは、自分のしたことの罪悪感から、「韓国方面の空は見上げることができないほど」良心の呵責にさいなまれた。そのご、1991年4月に、富山の某テレビ局の取材班とともに、3ヵ月間、残りの一人の教え子を韓国で探し歩き、やっと彼女にめぐり会うことができた。この教え子は、心から謝罪する池田さんを恨まなかった。「先生は幸せですか?」と、静かに聞いただけだった。数ヵ月後、この教え子から手紙が来た。「百回謝罪するより、行動こそ重要だ」という内容だった。
 以来、「罪を犯したまま死ぬわけにはいかない」と決心した池田さんは、自分の半生を綴った『二つの祖国』という本を出し、講演や集会で「挺身隊動員は民間業者がしたことだ」という日本政府のごまかしや、「日本は植民地時代の朝鮮に有益なことをした」という一部歴史学者の主張の欺瞞を、自らの体験にもとづき反駁し続けてきた。毎年、自分の体験の告白と謝罪をこめた年賀状を1500通もおくり、人びとに理解と共感を訴え続けてきた。池田さんの献身的活動は、挺身隊と日本軍慰安婦問題の責任逃れを図ってきた日本政府が事実を認め公式謝罪をするようになった契機の一つとなった。
 池田さんは、年金の大半を強制連行補償問題を展開する市民団体に寄付し、みずからは、封筒もチラシ広告の裏紙を利用して手作りにするなど、ぎりぎりの切り詰めた生活を送っていた。一昨年の年賀状で、「校舎の内外で私にやさしくほほ笑んでくれた小5、小6の少女達、日本に虐殺されています。このことを訴えられない自分が悲しくて体調は悪くなっていきました。訴えていこう。やっと少し元気になりました」と書いてくれたその池田さんはもういない。インターネットの閲覧を終え階下に降りて郵便物をみると、私の出した池田さん宛の寒中見舞いが「転居先不明」で戻されてきていた。偶然とはいえ、二重のショックだった。