ふなやんのアメリカ・フェス紀行2001


IBMA編その1

 

2001年10月1日、長年の夢だったアメリカの地に降り立ちました。
最初の目的地、ケンタッキー州ルイビルの「IBMA・ワールド・オブ・ブルーグラス」の会場である、ガルトハウス・ホテルに到着してチェックインをしているとある日本人女性から声をかけられました。その女性は、なんとチャーリー・ウォーラーの奥さんでした。
その後、先に現地入りしていた、宮崎御夫妻、笹部御夫妻、尾崎御兄弟と合流、ホテルのレストランで夕食を取りました。入ってビックリ!ビル・キース、ジム・ハースト、クリス&サリー・ジョーンズが!あー来て良かった!!(夕食は、15ドルのスペアリブ、あー旨かった)
JBBの演奏がある、インターナショナル・ショーケースを観に行くとBOM渡辺社長が誰かと話している。クリス・シャープだ!彼は小柄で、持っているギターケースがヤケに大きく見えました。
中に入ってJBBの演奏を聞きながら周りを見渡すとピート・カイケンダル夫妻が居り、周りの人に日本のブルーグラス事情を語っている様でした。(多分)
後から吉田さんから聞いたのですが、この会場には、キャシー・キャリックも来ていたそうです。残念ながら気が付きませんでいた。

インターナショナル・ショーケースでの演奏終了後、JBBと共に次の演奏場所である、カパークリーク・レコード・スウィートへ移動しました。ここでの演奏は、オーディエンスが集まらず、今イチ盛り上がりませんでした。
次のカリフォルニア・ブルーグラス・アソシエーション・スウィートでは、人数が多く、大変盛り上がりました。途中、chiakiさんからカナダの日系企業に勤務されている、Mrハーベイを紹介されましたが、英語がダメなので会話が出来ませんでした。嗚呼、情けなや・・・
翌朝、吉田さん、田中さん、祖父江さん、赤沢さんと息子さんとで、ホテルのレストランで朝食を取り、その後、近くのショッピング・モール内のドラッグ・ストア兼スーパーで買物をし、そして、かの有名な「オハイオ川の岸辺」を散策。歌の舞台となった現地をこの目で見ることが出来、感無量でした。
ホテルに帰り、受付で登録(1日90ドル也)を済ませ、トレード・ショー開場までしばらく時間が有ったので、一旦、部屋に帰り、日本から抱えて来たマンドリンを弾くとこれがムチャクチャ良い音がするのです!!同じマンドリンとは思えません。すっかり良い気分になって2時間近くも弾いてしまいました。
再びトレード・ショーへ向かいましたが、少し時間が早くてまだ開場しておらず、仕方なく入口前で待つことにしました。ふと、1階ロビーに目を遣ると見覚えのある顔が。急いで階段を下りて、名札を確認すると思った通り、バズ&パット・マテソンでした。彼は、マック・マーチンとブラザーデュオ・スタイルのアルバムを発表しているので、ご存知の方も居られるかと思います。(奥さんのパットもベースで参加)
2人のジャム(バンジョーとベース)を聴いていると、以前、2人のバンドに在籍されていた、マロ・カワバタさんが来られ、ジャムに加わりました。それにしても3人共、楽器も歌も上手い!(プロだから当然)
偶然、通りがかった笹部さんもマロさんに誘われ、何曲か歌われました。

バズ&パット・マテソン&マロ・カワバタ・ジャムを聴きながら何気なく周りを見ていたら白髪の巨漢氏と目が合いました。すると、巨漢氏がこちらへ歩み寄り、握手をしながら一言。「元カンジェンのビル・イエーツや」
トレード・ショーが開場したので、そちらへ向かいました。やはりIBMAですねぇ〜、会場前でビル・キースブッチ・バルダサリが立ち話してました。
さて、肝心のトレード・ショーですが、ホテルの大きな宴会場(ボール・ルームと言うべきか)を2ヶ所使用し、楽器メーカー、レコード会社、アーティスト等ブルーグラス関係の業者が一同に集まり行う、商談会です。日本からもBOMサービス、SUMI工房、デザート・ローズ・バンジョー、WADEの4社が出展しておりました。
会場内でも、そう多くではありませんが、アーティストの姿があちこちで見受けられました。ヤマハのブースには、岡山にも来た、ジェフ・ガーンジー、同じく岡山に来た、ビル・エバンス、近所のオバチャンみたいだったバレリー・スミス、スマートな印象のあったラッセル・ムーアの太鼓腹に驚き、全身黒ずくめのダン・クレアリー、教則本やビデオで有名なマーフィー・ヘンリー母娘、写真でみるとそうは思わないけど大柄だったポール・ウィリアムス(彼のファンなので、サインを貰おうとレベル・レコードのブースでCDを買い、その場に戻ったが、もう居なかった残念)、アーティストではないけれど、レスター・フラットのマネージャーを務めた、ランス・リロイの姿もありました。彼のブースで、最近のリリー・ブラザーズの写真を見て2人共、元気だと判り、安心しました。(2人は80歳前後のはず)
楽器も色々見ることが出来ました。日本円にして3000万のマーチン・ギター(貝だらけのギンギンギラギラ・モデル)、トップが星条旗柄のギターとマンドリン、大太鼓にベースのネックを取付け、弦を張ったようなベース・バンジョー?、そして、SUMI工房、WADEのマンドリンを弾かせて頂きました(感想は聞かないで下さい。何を弾いても同じ音しかしません)。
何時間も立ちっぱなし、歩きっぱなしでくたびれ果ててしまいました。

前回、書き忘れていましたが、トレード・ショーには、チャップマンズ(泊まっていた部屋が同じ階だった。)、JD・クロウ&ニューサウスの別ユニット、ワイルドファイヤーの顔も見えました。それと、トニー・ウィリアムソンも自身のブースを出展していました。
その日は、長時間、歩きっぱなしだったので、くたびれ果て、部屋に戻って仮眠。目が覚めると、すでに暗くなっていました。その後、朝と同じ顔ぶれで近くのシーフード・レストランで夕食を済ませ、ホテルに帰り、昨日に引き続きJBBの後についてchiakiさんが仕切る、インターナショナル・スウィートへと向かいました。
到着すると、すでにスイスのクルーガー・ブラザーズの演奏が始っており、会場内は、満員でした。これは相当盛り上がる、と期待していたのですが、クルーガー・ブラザーズの演奏が終わった途端、大勢が出て行ってしまい、急に寂しくなってしまいました。
結局、寂しいまま、演奏が始りました。その夜の出演バンドは、イタリアからレッドワイン、チェコとスロバキアからフラグメンツ、カナダからノースバウンド、日米混成のマロ・カワバタ・バンド、日本から御大尾崎ブラザーズ、そして大トリのJBBでした。
レッドワインフラグメンツは女性がベースとボーカルを担当。聴いていると、なぜかグラスアバウツを連想しました。
尾崎ブラザーズの演奏は、どう言葉で表現したら良いのでしょうか?アメリカでさえ、ほとんど聞かれ無くなった、ブラザーズデュオ・スタイルを現在も守り続け、演奏し続けておられる姿勢にただ、敬服するのみです。(アメリカのカントリー界、BG界も見習うべきだ。売れれば、何でも良い訳ではない。)
JBBは、ストレートなブルーグラスを思いっきり、ぶちかましてくれました。
ノースバウンドマロ・カワバタ・バンドは、疲れがぶり返したのか、時差ボケなのか、舟を漕いでしまい、ほとんど記憶がありません。バンドの皆さんに大変失礼だったと反省しています。
演奏が進むにつれ、空席も徐々に埋まり、盛況になりました。アンディー・オーエンズケーシー・マーフィーも来ていました。ひさえさんによると、エイブラム・シーゲルも来ていたそうですが、全く気が付きませんでした。
すべて終了後、渡辺三郎さん、秋元慎さん、ひさえさん、chiakiさん、JBBメンバー等日本勢、出演バンドメンバー、オーディエンスの皆さんと夜遅くまで語り明かしたそうな。

その日は、午前3時過ぎに部屋に帰り、就寝。
翌朝、吉田さんと祖父江さんから、ロンダ・ビンセント&レイジのライブが有ったと聞きました。ん?、と言うことは、朝の4時か5時にやったのか!何でそんな早よからやるの?、見逃したではないか!!
ロンダ・ビンセント&レイジがIBMA・WOB会場に来ていたのは、ツアーバスがホテル前に横付けされていたので、知っていましたが。
たった2日でしたが、IBMA・WOBに参加しての感想を。とにかく、会場が広い。広すぎます。よって、歩いて移動するだけで疲れます。もちろん、昇り降りは、エレベーターを使いますが、これまた、フロアも広いし、部屋数も多い。しかも、あちこちでジャムやライブが有り、それをひとつずつ覗いてたら、寝る暇なし、体が幾つあっても足りない状態に陥ります。なので、これから参加しようと思われる方は、始る数日前にホテル入りして、体を現地に慣らしてから、IBMAウィークに突入されるのが、よろしいかと思います。
部屋ごとに行われる、ライブやショーケースは、受付前に貼り出されて(部屋番号入りのチラシ)いますが、全部ではありません。運が良ければ、とんでもないジャムやライブに出くわすことでしょう。残念ながら今回は、そんなオイシイ思いは、出来ませんでしたが。
やはり、IBMAの醍醐味は、写真でしか見たことのない、アーティストがそこら辺に居ることでしょうか。ただ、チャーリー・ウォーラーを見かけた時は、言葉を失ってしまいました。ムーンシャイナー誌上では、奥さんと娘さんとで、元気にWOBを楽しんでいたと書かれていましたが、奥さんの手を取り、足を引きずって歩く姿は、見ていて辛かった・・・
ここで話を元へ戻します。
大して眠れぬまま、朝早くにチェックアウト。これから盛り上がらんとする、IBMA・WOB会場のガルトハウス・ホテルを後にして、最終目的地のオクラホマへ向かう為、ルイビル空港へ直行。歩き過ぎて、痛む腰をさすりながら、機上の人となりました。


OIBF編その1

10月3日、午前11時40分にルイビル空港を出発し、メンフィスで乗り継ぎ、予定通り午後6時にオクラホマ・シティー空港に到着しました。
空港には、OIBFボランティア・スタッフのMsジャッキーとOIBF参加の日本人一行がお世話になった、Mrドン・ハーディンのお父さん、ジョージが出迎えてくれました。
早速、2台の車に分乗して、フェスの開催地のガスリーへ移動。北上すること約40分で、ガスリーとフェスの間、宿泊するベスト・ウェスタン・ホテルに到着。ガルトハウス・ホテルとは違い、こじんまりとした、田舎のホテルでした。(二階建てで、エレベーターなし、歩いて移動しても苦にならない)
チェックイン後、ロビーでジョージに翌朝9時半に迎えに来てもらえるよう、お願いして、ジョージとジャッキーと別れました。
荷物を部屋に置き、吉田さん、田中さん、祖父江さんと近くのガソリン・スタンド内にある、店員が全員、東南アジア系のコンビニで、ミネラル・ウォーターと軽食を買って帰りました。
ホテルの部屋は、2人で1部屋だったのですが、出発直前に1名、キャンセルしたので、キングサイズ・ベッドを独り占めする贅沢を味わいながら、眠りに就きました。

午前8時前に目を覚まし、身支度を整えて、1階のレストランへ朝食を取りました。その朝食は、ホテル側が宿泊客のために用意した、無料のもので、内容は、チェリー&アップルパイ、マフィン、コーヒー、ミルク、オレンジジュース、フルーツの中から選ぶという、朝食より3時のおやつにピッタリのものでした。
9時半近くなり、そろそろ待ち合わせ場所のホテルの玄関前に行こうとして、部屋を出たのですが、何としたことか、鍵を中に置いたまま、ドアを閉めてしまったのです。しかも、オートロック。大慌てでレセプションへ行き、知ってる限りの英単語を並べて、事情を説明し、スペアキーを受取り、事無きを得ました。
バタバタしたものの、何とか9時半に玄関前に。が、9時半を過ぎてもジョージは、ホテルに来ない。途中、「会場まで送ろうか」と声をかけてくれた人が居りましたが、3人とも、てっきりジョージが来てくれるもの、と思い込んでいたので、丁重にお断りしたのですが、後で聞いたらその人だった様です。
10時を過ぎても迎えが来ないので、3人で相談し、ホテル内のアーティスト・ホスピタリティー・ルームに詰めていたボランティア・スタッフの方の車で、フェス会場のキャンピング・グラウンドまで送って頂きました。

なんやかんや有りましたが、無事に会場へ到着。受付でチケットのリストバンドをして貰い、新聞の様なプログラムを受け取って、JBBの演奏をテリトリアル・ステージで「観戦」。OIBFから、ベースの「ブルーグラス・ボーイ」今井さんが合流して、リズムにグッと厚みが増しました。
JBBは、日本を代表する凄腕ブルーグラッサーで構成されたバンドだから、聴いてて気持ち良い。本場モンと較べても、決して、見劣りはしない。大受けしているのを見ていると、同じ日本人として嬉しくなります。
JBBのステージ終了後、隣のランドラン・ステージでオートハープ・マスター、ブライアン・ボワーズ(Bryan Bowers)を観る事にしました。オートハープと言われると、女性が抱えて、情緒たっぷりに弾くイメージが有ったのですが、彼は、そのオートハープを5フィンガーで「バリバリ」弾いていました。アメリカには、色々なミュージシャンが居るようで。
彼のステージをちょっとエスケープして、売店用テントを覗くと、JBBのCDを販売中で、飛ぶように売れ(ましたよね!chiakiさん!)、メンバーは、サイン攻めに遭ってました。いや〜、何かようわからんけど、嬉しいな〜。
CDの販売とサイン攻めから解放されたJBBメンバー、田中さんとで昼食。噂に聞いていた、ターキー・レッグとホットドッグを会場内に店を出している、屋台(日本風に言うと)で購入。ターキー・レッグは、味は良いが、肉に汁気がなくパサパサしているのと焼きすぎて一部が炭化しているのが難点。ホットドッグは、パンにソーセージを挟んだだけの非常にシンプルなものでした。
とにかく、その昼食を詰め込んで、カナダの女性フィドラー、エイプリル・バーチ(April Verch)のステージを観に行きました。

エイプリル・バーチ(April Verch)
彼女については、全く知りませんでしたが、そのステージを観て、ぶっ飛んでしまいました。
とにかく、フィドルがスンゲェー上手い。彼女のルーツである、カナダ東部(ケベック?)スタイルからアイリッシュ、オールドタイム等々、音が洪水の様にこちらに押寄せて来ます。しかも、フィドル片手に、または弾きながらタップを踏み、踊りまくるのです。(カナダ版クロッグ・ダンスか?)
バック・バンドのギタリストは、カポ無しで弾きまくるし、もう1人も、大小2種類のスプーン、ハーモニカ等、色々と持ち替えて、演奏しておりました。(スプーンのソロが凄かった。)
笹部氏の新妻、ユーコさんが「エイプリルとジャムした〜い」と言ってました。プロのバイオリニストにそこまで言わせるとは・・・
同じステージで、この日2回目のJBBを観てから、ガスリー市前市長のMrドン・ハーディン邸で開かれる、ホームパーティーへ向かう為、ホテルに戻りました。
ホテルに戻ると、すでにドンが来て、待ってくれていました。前市長と言うのでどんなじい様かと思っていたら、40代位の若い方でした。赤いアロハシャツにデニムの短パン姿で、前市長と言う自分の頭の中で思っていた、イメージとは大分違っていました。
ハーディング邸へ移動の為、ボランティア・スタッフの方が運転して来られた、マイクロバスの様なダッジ・バンに乗り込み、ドンのシボレー・サバーバンの後に付いて出発したのですが、ドライバーが別の車の後に付いて行ってしまい、道が判らなくなりましたが、携帯で連絡を取り、何とか、ハーディング邸に辿り着きました。

ようやくハーディング邸に辿り着き、車を降りて、驚いた!
来客数ざっと数えて約100人、PAまでセットされていました。それで、誰が演奏するのかと思いきや、JBB用との事。朝と昼に2ステージこなして、またこれから演奏とは大変ですな〜。
話変わって、本日のホームパーティーは、豚の丸焼き(2頭)、ロースト・ヴェニズン(鹿肉)をメインに、サラダや豆料理にデザート等々のメニューでしたが、人が多いのと、美味しかったのとで、大量の料理が、あっという間に、殆ど無くなっていました。鹿肉を初めて食べましたが、野趣あふれる味で、結構いけました。
食事の後は、皆さんお待ちかねの「JBB・オン・ステージ」の始まりです。メンバー全員、昼間の疲れも見せず、快調に演奏を続け、途中に尾崎ブラザーズ(ヨーデルが最高でした)と笹部夫妻によるフィドル&ギター・ソロを挟み、延々10時頃まで続きました。
その後も、吉田さんとガスリーの友人、リチャードとのジャムや初めて聴いた、笹部さんのフレイリング・バンジョー(クロウハンマー?)、吉田さんのフィドルをバックにしたジミー赤沢さんのヨーデル(10年前にラジオで、去年の宝塚フェスで聴かせて頂きました)を直に聴けて、嬉しかったのです。
パーティーもお開きになり、ホテルに帰りましたが、そのまま寝てしまうのが何かもったいない気がして、ホテル内をウロウロしていたら、1階にある、セブン・シューターズと云うバーでJBBメンバーや尾崎さん、田中さん達が飲んで居り、中に招き入れられ、何故か笹部さんの肩揉みをしていました。

ホテルのバーで1ドルのスプライトを飲みながら、皆さんのお話に耳を傾けておりました。そこへ、エイプリル・バーチの旦那、マーク・ブルゥ(Blueにあらず)がビール片手にやって来て、話の輪に加わりました。彼は、96年に6ヶ月間、長野に滞在して、英語、フランス語、ポルトガル語を教えていたそうです。それで色々話を聞いたのですが、マークは「長野でSlugを食べた」と言うのです。スラッグと言えば、なめくじのこと。本当に長野では、なめくじを食べるかどうかは、未だ謎です。
マークの長野話で盛り上がっている時、同じバンドのギタリスト、クリント・デュボワ(だったと思う)もバーに来ました。彼は、なんとまだ19歳。才能の有る人は良いな〜。その音楽的才能を少し分けて欲しい・・・。バーの入り口に21歳未満は入店禁止と書いてあったような気がするのですが。

夜も更けて、飲み会?もお開きに。その後、笹部さんや吉田さん達と隣のアーティスト・ホスピタリティー・ルームへ様子を窺いに行きました。そこでは、ホテルに泊まっているミュージシャンや地元のスタッフの皆さんがジャムの真っ最中でした。
笹部さんは、周りの人とお喋り。吉田さんは、バンジョーを弾くヤン・クルーガーを凝視していましたが、明日のことを考えられてか長居はせず、早々に部屋に帰られたようです。
独り居残り、先ほどバーで会った、マークやクリント、エイプリルとミスティー・リバーのメンバー(ギターとベース)がジャムしているのを横で聴いていました。そうしていると、マークがジェスチャーと目でマンドリンを弾くよう合図して来たので、スタッフの物らしきマンドリンをお借りしたものの、このマンドリン、全然チューニングが合ってない。自分の耳を頼りにチューニングするも、頼りになるはずも無く、妙な音を出して、皆の笑いを誘っただけ。結局、愛用のギブソンをチューナーでキッチリ(?)チューニングして使うことにしました。
隣のベーシスト嬢から「何か弾いて」とリクエストが。そこで、数少ない持ちネタのひとつ、「ソルジャーズ・ジョイ」を弾きましたが、指が動かないし、間違いだらけでボロボロでした。何曲かジャムにつき合せて頂きましたが、いきなり「Eマイナー」と言われても弾けません。
ジャムが終わって、部屋に帰ったのは、午前1時過ぎでした。

翌10月5日は曇でした。
昨日と同じくチェリーパイとコーヒーの朝食を摂り、待ち合わせの為、外に出ると寒い!まるで真冬のよう。震えながら待つことしばし。ピッタリ8時45分にドンの車が、ホテルの玄関前に到着しました。
その車には、2人の日本人女性が同乗していました。お2人は、現在ロス在住の「ヨシ」さんと「ノゾミ」さん(フルネームもお聞きしたのですが、忘れてしまいました。失礼。)で、ヨシさんは、高校生の時、1年間ガスリーでホームステイをされ、一旦帰国後、再び渡米してロスの短大に通いながら、4年制大学への編入の準備をしているとの事。ノゾミさんは、ヨシさんの短大のクラスメートで、社会福祉の勉強中だそうです。そして、お2人とも岡山県出身。まさかガスリーに来て、岡山県人に会うとは。一瞬、世界が「えれぇ〜」狭く感じました。
とにかく寒いので、挨拶もそこそこに車に乗り込み、フェス会場へ直行。会場に着いた頃から雨が降り始め、気温も下がってきた為、車の中で待機することにしました。その内、雨も小降りになり、予定では別々のステージで演るようになっていた、フィドルとバンジョーのワークショップが、急遽、売店用テントで開かれました。テント内は、鮨詰め状態でしたが、目の前でバイロン・バーラインのフィドルプレイが観られて、これはこれで楽しかった。
ワークショップが終わって、外へ出ると、雨は止んでいました。

雨が上がってホッとしたのも束の間、今度は風が吹き始め、前にも増して寒くなってきました。
その寒風吹き荒ぶ屋外ステージ(ランドラン・ステージ)の初っ端は、JBB。事前に出番が決まっていたとはいえ、お気の毒です。実際、演奏しているのが辛そうに見えました。
辛いのは観客側も同様です。地元の人達は、毛布を被ったりして、防寒対策はバッチリの様でしたが、凍える寒さの中で欲する物は皆同じ。後でなおやさんから聞いた話では、3軒出ていたスタンドの内、2軒のコーヒーが瞬く間に売り切れ、残る1軒は、他のスタンドが売り切れた途端、50セントのコーヒーを1ドルで売り始めたとか。アメリカの場合、人気商品にはプレミアが付くと聞いていたけど、コーヒーまでに付くとは思わなかった・・・
寒さしのぎに出番の終わったJBBの後にくっついて、売店用テントに入り、楽器やらCDを眺めているとドンがやって来て「皆でランチを食べに行こう」と誘われ、JBBメンバーとマスコット嬢、マネージャー女史以外の日本人、計8名で、ドンの車に乗り込み、ガスリーの街中へと向かいました。
祖父江さん、尾崎さんたちは中華レストランへ。残り4名は、ドン行きつけのレストランへ。店内に入ると奥の部屋に通され、中では、ライオンズ・クラブの会合の真っ最中で、何故か4人共、ドンからその場にいた皆さんに紹介されました。
昼食後、ヨシさんの案内で、ガスリーの街を見て歩きました。ガスリーは、オクラホマ・シティーが出来るまで、オクラホマ州の州都だったそうで、その為、古い街並みや建物が残り、市の条例や住民の手で保存されています。丁度、街全体が倉敷の美観地区の様な感じでしょうか。

ガスリー市内を散策するのも楽しいのですが、このOIBFで一番楽しみにしているがジム&ジェシーのステージを「生」で観ることなのです。その為にガスリーに来たと言っても過言ではありません。
ステージの始まる午後1時が過ぎる頃には、そちらが気になってしようがなくなり、フェス会場の近くまで来たときヨシさんに道順を聞き、3人に断って会場まで大急ぎで戻りました。
会場に近づくにつれ、聞き覚えのある、ジム&ジェシーサウンドが聞こえてきました。ステージ前に駆けつけ、感慨に浸りつつ、「ジム&ジェシー・ショー・イン・OIBF」の第一幕を楽しんだのです。
演奏後、CDを買うためにブースにスッ飛んで行きました。目的は、CDにサインを貰って、一緒に写真を撮ること。勇んでブースに乗り込んだのですが、ジェシーはいるけどジムがいない。仕方なく、ジェシーにサインを貰い、次は写真をとふり返ると、すでにレコードの束を抱えたファンに囲まれていました。しばらく様子を窺い、ファンの輪が途切れたところでジェシーに声を掛け、一緒に写真を撮りました。その時にジェシーと少し話すことが出来ました。(「日本から来ました」、「昔、日本へ行ったョ」こんな程度ですが)それと、写真を撮ってくれたのは、バージニア・ボーイズのフィドラー、バディー・グリフィンでした。
ジム&ジェシーについては後でまとめて書きたいと思っています。

しばらくブース付近でジムが来るのを待っていましたが、その時は、会えずじまいでした。再び、ステージ前に戻り、ミスティー・リバーを観て(聴いて)いましたが、どうしても気になり、ブースの方を見ると、ジムが来ていたのです。しかし、ジムはファンかスタッフの方と話し込んでいて、ちょっと声を掛けづらいなぁ〜と思ってたら、話し終えたジムが、ステージ側へと戻って行くではありませんか!ここぞとばかりに声を掛け、サインを貰って、一緒にいた、女性マネージャー(?)に写真を撮って貰いました。嗚呼、本願成就、バンザーイ!!
興奮冷めやらぬまま、エイプリル・バーチやバイロン・バーライン・バンドを観たり、JBBのブースの周りをウロウロしておりました。そうしていたら、ドンに呼ばれ、朝一緒に来た5人で、ドンの自宅に向かいました。

読者の皆様へ
毎回、支離滅裂な駄文をお読み頂き、有難うございます。
さて、当アメリカ・フェス紀行もOIBF編に入って、すでに12回目を数えます。予定では、昨年中にすべて書き終えるつもりでした。しかし、パソコンが借り物で、使用時間に制約があるのと、小生に文才が無いこととが重なり、思うように書けず、その結果、今まで長々と続いてしまった訳です。
アメリカから帰国して、もう4ヶ月が経過しようとしています。そのせいか、徐々に記憶が曖昧になって来ております。よって、細かいところまで思い出せず、パソコンの前で、頭を抱えています。キーボードに向かうのが、憂鬱です。もっとも、自分で勝手に始めたのですから、最後まで責任を全うしようと思います。
果たして、いつ終わるのやら・・・

chiakiさんへ
OIBF編その11は、10月5日(金)の出来事を書いております。例のことは、翌6日の出来事だと記憶してます。ジムと一緒の写真を撮って貰った、マネージャーらしき女性は、金髪でしたからねぇ〜。そうでなければ、chiakiさんは、何時からアメリカ人になったのでしょうか?

なおやさんへ
5日の午後は、そうだったのですね。記憶違いをしていました。
ところで、なおやさんのアメリカ旅行記は、何時?

SATさんへ
ラブロマンスもトラジックロマンスも一切、身に覚えがございません。某夫妻の熱気にあてられて、幻想を見たのかと思われます。

今回は、ちょっとダレて来たので、趣向を変えてみました。

ドンの自宅には、父親のジョージ夫婦と伯父のオリバーが来ていました。オリバーは、オーバーオールにワークブーツという、典型的なアメリカの農夫のスタイルでした。(実際に自分の目で見られて、嬉しかった。)
ドン一家とヨシさん、ノゾミさんに通訳して貰いながら話をしたり、夕食をご馳走になったり(鹿肉のシチューは絶品でした。)している内に、時間が来て、ドンは仕事へ向かい、他の皆もそれぞれの目的地に分かれて行きました。(詳しくは、なおやさんの別項をご参照下さい。)
小生は(なんて書くと、シカタさんのナッシュヴィル・レポートのよう)、ジョージのトラックで、フェス会場まで送って貰いました。別れてから、帰りの時間を伝えておくのを忘れたことに気が付きましたが、市内を巡回する、トロリーバスのバス停がホテル前に有ったのを思い出し、「バスで帰ったらええわ」と考えて、ステージの最前列に陣取り、かぶりつきでジム&ジェシーのステージを楽しんだのです。
ジム&ジェシーのステージが終わり、帰ろうと思って、入場口に止まったバスに乗り込み、運転手に行き先を聞くと、返ってきたのは「このバスは、ダウンタウン行きで、ホテルには行かない」という、非情の答えでした。
バスを降りて、その場でただ、呆然と立ち尽くすのみ。そこに、会場警備のガスリー市警の女性オフィサーに声を掛けられ、トロリーバスについて色々と説明して頂いたのですが、内容は、ほとんど理解出来ませんでした。理解出来たのは、唯ひとつ、どのトロリーバスもベストウエスタン・ホテル前まで行かないことでした。

どうやってホテルに帰ろうかと必死に考えました。歩いてのは、道が判らないし、どれだけ時間が係るか不明。弱ったなぁと思っていると、先ほどの女性オフィサーが同僚に話をつけ、なんと、パトカーでホテルまで送って頂けることになりました。
オフィサー・デービットの運転するパトカーでホテルに向かいました。車中で「(アメリカの)ポリス・カーに乗るのは、初めてです。」なんて言ったら、スピード違反取締り用レーダーや無線機、サイレンやパトライトのスイッチの場所まで説明してくれました。
無事ホテルに到着し、帰り際、「ガスリーでの滞在を楽しんで下さい(多分)。」と言い残し、颯爽と立ち去って行かれました。
フェス最終日に改めて御礼を言いたかったのですが、バタバタしていて、言いそびれたのが心残りです。
翌10月6日は、雲ひとつない快晴でした。絶好のフェス日和と思ったのですが、駐車場の車のフロントガラスには、しっかりと霜が付いていました。

レストランでなおやさんと一緒に朝食を摂りました。メニューは、相変わらずパイやマフィンでしたが、3日も食べ続けると、その甘さに慣れてくるのが恐ろしい。
朝食後、出発の時間までホテルの周りを散歩。ホテルへ上がるスロープ下に(ホテルは、小高い丘の上。リトル・ホテル・オン・ザ・ヒル?)テネシーナンバーのリムジン・バスが駐車していました。先ほど、レストランで、ニューサウスのベース弾きを見掛けたから、これは、JD・クロウ&ニューサウスのツアーバスと確信して、記念に写真を撮り、ホテルに帰ったら、その玄関先でJDとバッタリ。
この日もドンの車で会場まで運んで貰い、マンドリン・ワークショップを観るため、ランドラン・ステージへ。
マンドリン・ワークショップの講師は、ジョン・ムーア、チェコバンドのkristufek(読み方不明)、そして、我らがKatz宮崎氏。プログラムには、ジェシー・マクレイノルズの名前も有ったのですが、出てこずチト残念。
3人の講師で始まり、少し遅れて、もう1人ステージに上がって来ました。最初、誰だか判らず、「誰や、このヒゲ面は」と思ってよく見ると、クリス・シーリでした。クリスは、いつも通りのややこしいフレーズを弾いていました。よく聴いていると、師匠ジョン・ムーア似のフレーズが時折出てくるのが、微笑ましい。
個人的な感想は、どうしたらあんなに弾けるのでしょうか?(スーパー・ピッカーのテクを追っかけない方が身の為、世の為、人の為)

マンドリン・ワークショップ終了後、同じステージで、元ブルーグラス・ボーイのビリー・ジョー・フォスターがフィドルでゲスト参加している、地元ローカルバンド、ボーハム・レビュー(Bohnam review)を観ました。
演奏は、ローカルバンドとしてはまずまず。途中で、バンマス(らしい)のマンドリン弾きの妹だか従妹だかがステージに上がってきて、「色あせし恋」と「キャベツ」の2曲をフィドルで弾いたけど、少々、頼りない音色でした。
まだボーハム・レビューの演奏は続いていましたが、隣のステージに移動して、ミスティー・リバーの演奏を観る(聴く)ことにしました。
ミスティー・リバーは、ギター、フィドル、アコーディオン、ウッドベースの女性4人のバンドで、オールドタイムとアイリッシュをミックスしたサウンド(ホンマかいな?)。その音に女性ボーカルが絡むと、絶妙なコンビネーションでタマラナク良いのです。
引き続き、同ステージにてジョン・ムーア率いる、ブルーグラス・エトセトラを。隣のステージでJDクロウ&ニューサウスを2つのステージを交互に移動しながら観たのでした。

ブルーグラス・エトセトラとJDクロウ&ニューサウスは、2つのバンドを交互に観たせいか、どんな演奏だったかはっきりと覚えていません。ただ、エトセトラのバンジョー&フィドルのデニス・キャプリンガーとニューサウスのドブロ弾き、フィル・レッドベターが、アンディー・オーエンズ並みの巨体だったので、「3人が一緒に美星フェスのステージに上がったら、陥没するのではないか?」等と変な想像をしてしまいました。そんな訳で、ジョン・ムーア、ブラッド・デイビス、ダン・クレアリーのギタージャムが有り、観たにもかかわらず記憶にないのです。
この後、お楽しみのジム&ジェシーを最前列かぶりつきで観て、ステージ修了と同時にアーティスト・ブースに飛んで行き、CDを買い込んでいると、同じ時間帯に別のステージで演奏していた、JBBメンバー+chiakiさんもブースに到着。しかし、まだテーブルが空いておらず、空くまで待機してました。
今回は、ジムとジェシーが2人とも来ており、どうせなら2人と一緒に写真を撮りたいと思い、chiakiさんに頼み込み、写真を撮って貰いました。本当、chiakiさんには、大感謝です。この日以来、chiakiさんがお住まいの京都に足を向けて寝ておりません。(この件につきましては、別項にchiakiさんご本人が、詳しく書かれておられますので、よろしければそちらもお読み下さい。但し、一部不適切な部分が有ります。)
すっかり舞い上がってしまった為、すぐ側にJD・クロウが居たのに、サインと一緒の写真を撮ってもらうのを忘れていました。帰国してから気が付き、大変悔しい思いをしています。
JD・クロウと云えば、「マスターズ・オブ・5ストリング・バンジョー」を抱えた、バンジョーオタクに取り囲まれ、サイン攻めに。その中には、しっかり吉田さんも加わってました。
その吉田さんも、地元のバンジョーオタクに捕まっていましたが。

前回の続きを少々。
chiakiさんにお願いして、ジム&ジェシーと一緒に写真を撮って貰ったことは前述しましたが、写真を撮った後、ジムに肩をポンと叩かれ、何やら話し掛けてきたのです!。何を話したかは憶えていませんが、とにかく、嬉しかったのです。(ジムは前日、一緒に写真を撮ったことも憶えていました。)
2人がアーティスト・ブースを立ち去る時、ジェシーがチョイと手を上げ、「See,Ya!」と一言。2人の後姿を見ながら、吉田さんが一言。「カッコええなぁー」(同感です)
この時、すでに午後2時を過ぎており、スタンドで「リブアイ・ステーキ・サンド」なるものを買って食し、腹の虫をなだめてから、ブルーグラス・ブギーマンとバイロン・バーライン・バンドを観ました。
ブルーグラス・ブギーマンは、演奏も濃いが、メンバーの顔も濃い。とてもオランダ人には見えない。バイロン・バーライン・バンドの目玉は、ボーンズのバリー・パットンでしょう。たった板切れ4枚で音楽してしまうのが凄い。
続いて、今回のOIBFで初めて知り、お気に入りなった、エイプリル・バーチのステージを観賞。このバンドは、フィドルチューンあり、歌あり、ダンスありで観ていてとても楽しい。
この後、同じランドラン・ステージでJBBが出演するのですが、隣のテリトリアル・ステージでは、今をときめくニッケル・クリークが。
数年前、来日した際に見逃しているので、ニッケル・クリークを観ることにしました。が、OIBFでのステージは、演奏、歌共に精彩に欠け、各方面から大評価されているバンドとは思えませんでした。観ているうちに頭痛がしてきたので、JBBのステージに移動してしまいました。
午後6時から、この日2回目のエイプリル・バーチのステージを楽しんだ後、引き続き、JD・クロウ&ニューサウスの演奏が始まる直前、何処からともなく、JBBメンバー(全員ではありませんが)現れました。かぶりつきで観ている姿にこのバンドが日米のブルーグラッサーに与えた、影響の大きさを実感しました。未だ衰えぬJDのバンジョーに吉田さんは、ここでも「カッコええなぁー」を連発されていました。そして何と、デル・マッカーリーが飛び入りゲストでした。
終了と同時にJBBの皆さんは、何処へともなく立ち去って行かれました。独り残り、ジム&ジェシーのステージを堪能しました。これが最後なので、写真を撮りまくり、大はしゃぎしてしまいました。

前回のデルの件ですが、ご指摘の通りニューサウスのマンドリン弾き、ダレル・ウエッブのモノマネです。軽くジョークをかましたつもりだったのに。まさか、蛇派戯さんが本気にするとは・・・

ジム&ジェシーのステージも大喝采のうちに終わり、その感激をかみ締めつつ、遅めの夕食を摂る為、スタンドでハンバーガーとコーヒーを注文し、待っていると地元のオッチャンから「今日は冷えるねぇ〜。で、日本の何処から来た?」と聞かれたので「四国から。解りますか?」、「解らんなぁ〜」、「大阪は?神戸は?」、「いや〜、東京しか解らん」危うく、ズッコケるところでした。
ハンバーガーとコーヒーを持って、オールスター・ジャム・ジョン・ハートフォード・トリビュートが有る、ランドラン・ステージに向かいました。そのステージではニッケル・クリークが最後の曲を演奏中。修了後も延々と30分余り、アンコールが続きました。(JBBもこの日最後のステージは、アンコール4回+スタンディング・オベーションでした。)
アンコールに騒いでいるのは、ステージ前方に陣取った、ファンだけ。残りのオーディエンスはしらけおりました。中には、堪りかね「ブルーグラス!!」と叫ぶ人も。(心中、お察し申し上げます。)
とても退屈な30分がようやく終わり、本日の大トリ、オールスター・ジャムが始まりました。OIBFに出演した、全バンドがジョン・ハートフォードに捧げる一曲を演奏して行きました。
Mr.John Hartford,Rest in Peace

オールスター・ジャムも最前列で写真を撮りながら観ていましたが、ドンが「10時に迎えに来るから」と言っていたのを思い出し、ステージ前からステージ脇に移動しました。
ステージ脇でドンやなおやさん、SB江さんと合流。JBBの演奏を見届け、まだオールスター・ジャムの続く会場を後にドンの自宅に向かいました。
ドンの自宅で、冷え切った体を熱いカプチーノを飲んで温め、ヨシさんとノゾミさんを交え、ドン夫妻と語り明かしました。(話の内容は思い出せませんが。)
その後、ホテルまで送って貰い、到着したのは、午前1時過ぎだったと思います。出発が午前3時の予定なので、寝ている暇はありませんから、すぐ出られるように荷造りし、時間つぶしにマンドリンを持って、アーティスト・ホスピタリー・ルームへ。
すでにジャムが始まっており、入り口に居た、バイロン・バーラインに一言断って中に入りました。そのジャムの輪には、クルーガー・ブラザーズやミスティー・リバーのメンバーも加わって、何やら複雑なコードの曲をジャムってたので、輪には入らず、横で適当なコードで適当なリズム・カットをしてゴマカシました。恐ろしいことにすぐ側にビル・ブライソンが・・・
その内、JBBメンバーもホテルに帰って来て、休む間もなくジャムに突入。しかし、時は無情にも流れ、出発予定の3時となりました。まだ、しばらく滞在する、katz&chiaki夫妻と新婚旅行中のSS部夫妻とは、このガスリーでお別れと相成りました。
予定を30分オーバーして、オクラホマ・シティー空港に向けて出発し、到着後、ダラス経由でロスへ戻る、ヨシさんとノゾミさんと握手をして別れました。
空港内で、警備をしている兵士から「JBBをテレビで見た」と声を掛けられました。OIBFの様子が放送されたようです。これで、JBBも有名人の仲間入り!?(オクラホマだけですが)
午前6時30分にオクラホマを出発。メンフィスを経由して、デトロイトに到着。前にも飼いましたが、味の無いしょう油ラーメン食べたり、売店を覗いたりしている内に搭乗時間になりました。
飛行機は、搭乗率10%とかでガラガラでした。4人掛けの座席に自分1人という好条件。早速、肘掛を全部持ち上げ、横になり、デトロイト〜関空間は、ひたすら寝て過ごしました。
約13時間後、関空に到着。入国審査、税関を済ませ、機内預けの荷物を受け取ってロビーに出た瞬間、ムッとした熱気と湿気を感じ、日本へ帰って来たことを実感しました。


ジム&ジェシー編その1

ジム&ジェシーwithバージニア・ボーイズ
このバンドを知ることになったのは、今を去る13年前、京都の十字屋で購入した、東芝EMI発売の「カントリー・ミュージック・ジャンボリーVol.1」でした。
このCDは、キャピトル・レコードに残された、カントリーやブルーグラスの音源を4枚にまとめたもので、ジム&ジェシーの「Air Mail Special」と「Aer You Missing Me」の2曲が収録されています。(このCDシリーズで、マック・ワイズマン、ハイロ・ブラウン、ブルーグラス・ジェントルメンの名も覚えた。ジョージ・ジョーンズの歌う、ケンタッキーの青い月なんてのも有る)
まだブルーグラスやカントリーを聞き始めたばかりで、ブルーグラスに関して言えばバンジョーの音さえ聞こえていればゴキゲンだったので、マンドリンにはあまり関心が有りませんでした。(但し、BMKでビルモンが弾く、切ない音色のマンドリンには思わずノケゾッタ)しばらくして、ラウンダーの「イン・ザ・トラディション」やCMHの「マスターズ」を聴いている内にジェシーのマンドリンの音色が特徴的なのに気付き、後から「マクレノルズ・ロール」とか「クロス・ピッキング・スタイル」と呼ばれているのを知りました。
BOMサービスのニュースレターやムーンシャイナー、当時、ラジオ関西で放送していた、ブルーグラス・スペシャルやラジオ大阪のブルーグラス・ランブル等で様々な情報が入って来るようになると、ブルーグラスの最新鋭ともいうべき、コンポラ・ソリッド・グラスに物足りなさを感じ、古い録音物を聞き漁っていました。その中で、楽器のテクニックとオールドタイム〜ヒルビリー伝統のブラザーデュオから生み出されるハーモニーが絶妙のバランスで含まれている、ジム&ジェシーに興味を持ち、愛聴していました。(現在も)
吉田さんからアメリカ行きに誘われた際、OIBFにジム&ジェシーが出演すると聞き、ぜひとも行きたいと思いましたが、旅費の工面が出来ず、その時は断念するしかありませんでした。
何とか旅費を捻出し、ジム&ジェシーをこの「目」で観、この「耳」で聴く為、機上の人となりました。

ケンタッキー州ルイビルのIBMA・WOBを経て、オクラホマ州ガスリーのOIBFでジム&ジェシーを観て聴くことが出来ました。
バンドメンバーは、ジム&ジェシーの他、セカンドマンドリン&ボーカル:ルーク・マクナイト、バンジョー:ロイド・ダグラス、ベース&ボーカル:マテュー・オールレッド、フィドル:バディー・グリフィンという布陣。
ジェシーの孫、ルークが5年程前にバンドに加わっていたのは、噂で聞いていました。彼の弾くマンドリンは、やはりあの「クロス・ピッキング・スタイル」でした。このスタイルは、マクレノルズ家の伝統として、代々受け継がれていくのでしょう。もっとも、あまりリードは弾かず、リズムカットが主でしたが。
今のところ、ボーカル中心でステージをこなしている様で、ジェシーとリードボーカルを分け合っていました。ただ、ルークのボーカルは、ジム&ジェシーのバンドサウンドには、ちょっと合っていない気がします。まあ、歌は上手いし、ルックスも良いからビンスやりッキーみたいにカントリーに転向したら人気がでるかも。
バンジョーのロイド・ダグラスは、かのブルーグラス・ボーイズにも在籍していたらしい。その後、デビット・デイビス&ウォーリア・リバー・ボーイズに参加(現在、このバンドには元ブルーグラス・ボーイズのトム・ユーイングが在籍。一時期、これまた元ブルーグラス・ボーイズのチャーリー・クラインもフィドルで参加していた。)、そしてジム&ジェシーへ。
ベースのマテュー・オールレッドは、今をときめくクレイグ・スミスの居た、ASH&W、ラリー・スティーブンソン・バンドを経て、ジム&ジェシーへ。
この2人は、中堅ミュージシャンと云ったところでしょうか。
フィドルのバディー・グリフィンは、1950年代後半からプロ活動を始めた、超ベテラン。ウェストバージニア州ホイーリングのWWVAジャンボリーのスタッフ・バンドメンバーとして活動。アメリカ、カナダのフェスにて、ビル・モンロー、マック・ワイズマン、メイベル・カーター、ゴーインズ・ブラザーズのバックを務め、98年にジム&ジェシーへ。
その経歴通りの凄いフィドルでした。「これがブルーグラス・フィドルだ!」てな感じです。それに加え、ロイドのスクラッグス・スタイルのバンジョー、マテューの堅実なベース、ルークのバンド全体を煽るマンドリンのリズムカット、ジムのツボを押えたギター、それらに乗っかり、駆け巡るジェシーのマンドリン。そして、
ジェシーの円熟した渋いボーカルにルークとマテュー、ジェシーによる、シェイプ・ノート・シンギングをベースにした3部コーラス。
どれもCD等の録音物を通してしか聴けなかった、その音を目の当たりにして、徐々にボルテージが上がって行きました。
ひとつ残念なのは、ジムが喉のトラブルとかで全く歌えなかったこと。鉄壁のハーモニー、ブラザーデュオが聴けなかった・・・悲しい・・・

ジム&ジェシーを直に観て、ボルテージが上がり過ぎ、演奏された曲の殆ど憶えていません。困ったもんです。
何とか憶えているのは、バージニア州の州歌に推薦されている数百曲の内の1曲というMCで始まる「Blue Ridge Mountain Sunset」、おなじみのインスト「El Cumbanchero」は、ジェシーとルークのツインマンドリンで。東京公演のライブアルバムにも収められている「Westphalia Waltz」「Dixie Howdown」は、ジェシーとバディーのツインフィドルで。
他にももっと演奏したはずですが、思い出せません。ご記憶の方はお知らせ下さい。
個人的には、「Please me my love」や「Tennessee Lonesome Blues」が聴きたかった。リクエストしても発音が悪くて通じないかもしれない・・・
詳細は憶えてなくとも、大いに楽しめたのは事実。歌こそ聴けなかったもののジムの軽妙なMCも良かった。バディーのハゲ頭(失礼)をネタした、ルークのギャグに大笑い(サイトギャグなので、英語が解らずともOK)と演奏以外にも見るべきものがありました。
観客がブルーグラスを知らずとも、音楽そのものがよく判っていなくとも、自分達のステージに引き込んで行けるのは、50年余の経験の積み重ねの賜物でしょう。いかに観客を楽しませるか、乗せていくのかが、キッチリ計算されたステージングだと感じました。
1年の大半をツアーに明け暮れる生活は、高齢の2人(ジム1927年生まれ、ジェシー1929年生まれ)には楽では無いでしょう。それでも、ツアーやオープリー出演を精力的にこなして行く姿に、日頃の自己管理に努力している結果を見た気がします。ステージでもオフステージでもピシッと伸びた2人の背筋が印象的でした。
尾崎さんの「やっぱり、上手いね」の一言にすべてが集約されていると思います。


アメリカ・フェス紀行・まとめ

まとめになるかどうか分かりませんが、思いつくまま書いてみたいと思います。
今回の旅行で一番の問題は、出発の約20日前に起きた、「同時多発テロ」でした。全米の空港で飛行機の離発着が禁止され、アメリカだけでなく、日本から出発する国際便もすべてストップ。長年の夢が潰えるのかという思いと世界貿易センタービルの崩壊映像とがオーバーラップしていました。
テロによって生じた混乱もようやく落ち着き、無事にアメリカの地を踏むことが出来ました。(関空もデトロイト着の飛行機もテロの影響でガラガラでした)
空港に到着すると、入国審査が待っております。以前、maedolinさんが、同じデトロイト・メトロポリタン空港での入国審査でスッタモンダした話をブルームーンで読んだ事を思い出し、しかもよく似た状態(ナップサックを背負い、マンドリンの入った楽器ケースを提げ、パスポートにはタイとインドネシアの出入国記録が有る)の為、内心ヒヤヒヤしながら、係官にパスポートを手渡したところ、突然、日本語で「アメリカは何回目?」と聞かれ「初めてです」と答えただけでパスポーに入国スタンプを押されて終了。テロの影響でとても厳しいのかと思っていたので、ちょっと拍子抜けしました。が、もっと厳しい物が空港に有ったのです。
それは、金属探知機ゲート。このゲートが今回の旅行で、正に「鬼門」となりました。通過する度にブザーが鳴り、脇に呼ばれ、バンザイさせられ、体全体を金属探知機とボディーチェックで検査される羽目になりました。腕時計を外し、ポケット内の小銭を出しても、相変わらずブザーは鳴ってくれます。原因は、ベルトのバックルでした。バックルといってもカウボーイがしている様な大きなものでは無く、ごく普通のサイズなのですが。バックルで金属探知機に引っかかったのは初めてです。探知機の感度を相当上げている様でした。


テロの直後であった為、空港内は言うに及ばず、ルイビルやガスリーの街中のあちこちに星条旗が掲げられ、アンテナに星条旗を付けた車が走り、星条旗と共に「God Bless America」、「Forever Stars&Stripes」と書かれたステッカーが至るところに貼られていて、エルトン・ブリットが歌っていた、戦時カントリー「There’s A Star−Spangled Banner Waving Somewhere」の世界でした。
オクラホマについてなんですが、何かで「オクラホマ出身者はオーキーと呼ばれる」と書かれありました。オーキー自体が蔑称であることからも分かる通り、あまり良いイメージでは無かったと記憶しています。そんな訳で、オクラホマには気難しい偏屈な人間が多いのかとつい思いがちでした。しかし、ガスリーではお世話になった、ハーディン一家を始め、住民の皆さんから温かく迎えられ、イメージがガラリと変わりました。
本当にガスリーは良い所でした。人はノンビリしていて気は良いし、治安も良い。何よりも土地建物が安い!ドンの家なんざ土地付き一戸建てで300万円!!日本じゃこの金額ではマンションも買えない。思わず永住しようかと考えた。けれどもオクラホマは、全米一トルネードの発生数が多い所。そう云えば、映画ツイスターの舞台もオクラホマだったなぁ〜。
とにかく、ブルーグラッサーたる者は一生に一度で良いから、本場のフェスに行きましょう!!生涯忘れることの無い、有意義な経験となることでしょう。

今回のフェス旅行に携われた皆様、長期間、稚拙な駄文をお読み頂いた皆様に厚くお礼申し上げます。本当に有難うございました。

・・・アメリカ・フェス紀行・完・・・