山形県上山市本庄地区は、昭和29年10月に旧本庄村と上山市他4ヵ所が合併し、村より地区になった地域です。
地区内は、旧羽州街道(主要地方道上山七ヶ宿線)沿いに集落があり、その中には江戸時代宿場町として栄えた楢下宿があります。
この楢下宿では、江戸時代の脇本陣など数棟が修復され、一般に公開されています。
また、明治13年に架けられた「覗橋」(のぞきばし)が現在も残っており、史跡や文化財が豊富な地区です。
本庄地区の産業は、農業が主体で地区内農家数約320戸、約67パーセントの家が農家を経営していますが、
年々兼業農家が増えてきています。
地区の東側には水田が広がり、地区の西側の丘陵地には果樹園が広がるのどかな農村地帯です。
とりわけ、果樹については、初夏のサクランボにはじまり、ブドウ・西洋なし(ラ・フランス)・りんご・紅柿(干し柿も最高!)と
市内でもっとも果樹生産が多く、初夏〜秋にかけて、楢下宿と併せた観光客が多く訪れます。
慶応3年(1867年)に鳥羽・伏見の戦いで勃発した戊辰の役(戊辰戦争)で薩長を中心とする
新政府軍(官軍または西軍)が奥羽を鎮定する為に、奥羽鎮撫総督府を創設した。
【総督府の目的は、薩摩藩邸焼き打ちに関与した庄内藩と京都守護職会津藩の討伐が主だった。】
慶応4年(1868年)3月2日、薩摩隊103名、長門隊1個中隊、筑前隊158名、京都駐在の仙台兵100名で
編成された奥羽鎮撫総督軍は京都を出発。大阪より蒸気船その他に分乗し、伊豆下田港を経由して
仙台松島湾宮戸島の潜ヶ浦に入港。仙台藩の出迎えの船により仙台に上陸した。
仙台城下に本営を置いた奥羽鎮撫総督軍は、庄内討伐の意向を固めたがその理由に焦慮していた
矢先に、総督府が接収した村山地方にある幕府直轄領から庄内藩が年貢米として納められた米
2万3千俵の一部を最上川運河を使って持ち去ったとの一報が届き、これに激怒した総督府は
奥羽各藩に庄内討伐の命令を下した。
(この頃の奥羽各藩は朝廷主導の新政府側に付いていたが、奥羽列藩同盟の結成により新政府に戦いを挑んだ)

天童織田氏に陸路進撃の命令を下し、同年4月14日、副総督沢三位為量を主将として薩摩藩兵一個小隊(約100名)
長州藩兵一個中隊(約150名)で編成された副総督軍が仙台を出発。その間にも、奥羽各藩に宛てて討伐の指令を
出し上山藩にもその指令が下された。
同年4月17日、山形藩領に進入した副総督軍は山形藩庁にて休息をとった後、同日14時頃に上山城下に着陣した。
着陣した副総督は早速、上山南西に位置する【見目ヶ原(みるめがはら)】において、討伐軍及び各藩応援軍の
閲兵調練を行うと指令を下した。
4月18日、【見目ヶ原】にて閲兵教練を敢行。
金子清邦主導で行った軍備改編によって上山藩軍は、戦国時代から続く旧来の武装・編成からフランス式の洋式軍隊と
なっており、その一個中隊(総勢105名)のほか、寿仙寺和尚が徴募した農民で編成した農猟隊もこれに加わり参加。
薩摩藩兵一個小隊、長州藩兵一個中隊、山形藩兵一個大隊、天童藩若干が参加し副総督沢三位為量・上山藩主松平信庸
天童藩吉田大八が臨場する中、始まった。

上山藩は、これを境に幕末の動乱戊辰の役へと進むことになり、新政府軍としてまた奥羽越列藩同盟軍として
戦ったが、米沢・仙台が新政府に降服したのを機に上山藩も降服した。
この【見目ヶ原】は今は本庄地区の一部となっており、現在は果樹園や畑となり実りある季節に
おいては、観光のひとつとして賑わいを見せます。
また、戊辰戦争で戦った上山藩の洋式軍隊を再現して活動している
【平成上山藩小銃大砲隊】が本庄地区で開催される羽州街道飛脚駅伝での
号砲を担当している他、上山市でのイベントでもその雄姿を見せて活動しております。