露わにされた時間の堆積
倉林 靖=文
平野薫は、私たちが日常身に着けている様々な衣服を丁寧に解いていって1本の糸に還元し、それを再構成したインスタレーションの展示を行い続けている。その衣服とは殆どの場合女性用のもので、作者自身の私的な日常性や生活感が色濃く投影されている。それら、とは、シャツ、ドレス、スカート、ブラジャー、ストッキングから、スニーカー、ハンカチ、傘、着物にまで及ぶのだが、それらが解体され再構成されたインスタレーションを目の前にするときにまずひとが感じるのは、圧倒的な美しさと、そして繊細さと裏腹になった強靭さである。1本の糸が孕む張り詰めた緊張感。糸が光を照り返し、乱反射させ、あるいは室内の空気の流れに微妙に反応し、揺れ、その空間の空気を毅然としたたたずまいの異質なものに変換させる、存在と非存在のあいだを揺れ動く、だがはっきりとした実在性を伴う存在感。
もっとも、単に糸による空間構成を行うというのであれば、なにも、既成の衣服を解いていくという込み入った作業を介する必要はない。一度は着られた衣服であったものが解体されたということの意味は、展示される糸の質感にも大きく影響しているのであろうが、たぶんそれだけではない。最近の資生堂ギャラリーの個展で、彼女が公開制作で糸を解いていった時間の堆積がタイムキーパーの形で展示されていたように、彼女が「解(ほぐ)し、並び替える」という作業に与えている意味合いには、目に見える結果としてのもの以上の重要度が与えられているのだと想像できる。
平野は自らの作品解説のなかで、自作を「肖像」であり、解す作業を「消し去ること」、「解体=死、並び替え=再生」と説明できる、と述べているが、着るものとして作られたものを解体し再構成するというこうした作業のなかには、作られた時間をゆっくりと逆戻りしてたどりなおし、別なかたちにつくりかえてゆく、という側面もあるような気がする。そこでは私たちが衣服、布に包まれて暮らし生きて在るということが、日常の別次元的に異なった側面として露わにされ、開示されていくのだ。この「露わにすること」において、私たちはもう一度、私たち自身に、生きて在るということに、直面する。目の前に広がった糸の連なりを通して見えてくるのは、私たちの生(せい)の織り成す時間の堆積した層、自体にほかならない。
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