糸と布のかたち、横浜市民ギャラリー 2006 P-9


糸に染みる記憶
齋藤 里紗=文

 平野がほどくのは、多くは自らが身につけた衣類である。
 「順番に、機械的に、なるべく自分の意識が入り込まないように」(平野)ほどいていくことで、衣類はゆっくりとその姿を失っていく。衣類が、衣類である大きな理由を「着用できる」という機能に求めるとすると、衣類がその姿を失う、ということはその大きな存在理由を喪失することになる。何本もの糸の状態と化した衣類は、もう衣類として着ることはできないからだ。
 しかし、衣類は、本当にその存在を消したのだろうか?先にのべたように、衣類はいつも私たちの一番そばにいて、ほぼ私たちそのものといっていいくらい、着ている間は常に私たちと一緒に働き、生活の一部となっている。仮に衣類に意識が宿っているとしたら、私たちの行動を見つめ、私たちの気持ちを感じることができる、唯一の存在になりえるのではないだろうか。誰にも長年着用したために深い愛着がわき、手放し難い衣類があるだろう。あの感覚はもしかしたら、共に長く生きてきたために、自分のことを誰よりもよく知る、同胞に対する思いに似ているのかもしれない。
 わたしがある衣類を身につけ、ある日を過ごす。何気なく繰り返されているように思えるこの行為は、毎日少しずつ異なる。二度と、全く同じ皺は生じない。全く同じ光は浴びない。全く同じ日はない。もちろん、衣類には意識がない。だが、このただ一回の日や、時間の唯一さ、それによって生じていく衣類のほんのわずかな変化は、確かに衣類に刻まれる記憶とはいえないのだろうか。私たちは、毎日たくさんのものを見て、たくさんのことを感じている。しかしそれを次々忘れていく。次の、たくさんの新しいものごとに出会うために。衣類はこの私たちが忘れていく日常の多くのことを、一番身近で記憶しているのではないか。平野が信じているのは、この記憶は決して消えないのではないのだろうか。その確信と、自分の一番身近なものに宿る記憶へのいつくしみに、彼女の制作行為の理由がある。
 吹く風に素直に揺れる、様々の色の頼りなげな細い糸たち。衣類としての機能を喪失する代わりに、糸は着用という機能によって隠されていた、記憶を刻みうる存在という側面を浮かび上がらせる。彼女は何よりまずこの糸を綺麗だと感じ、だからみせたかったのだという。少しはにかみながら語る平野の、何ものにも変えがたい記憶の一班は、糸の一本一本に染み込んでいる。


© KAORU HIRANO