高橋先生から学んだもの
〜真理の継承〜
坂内宗男
一、先生との出合い
(一)1961年4月、高橋先生は登戸学寮2代目寮長として赴任されたのであるが、私は寮生として先生と初めて出会ったことになる。この出会いは、私にとって今後の人生を選択した決定的出会いであったのであるが、そこに至る前史―思想的遍歴を語らずして今の私は在りえない。同じく先生も、長い思想的遍歴と人生の転換による新しい道―無教会独立伝道者としての公的初声がこの時であったのであり、爾来文字通り生涯伝道の道を全うされたことを思うとき、この時期は正にシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)の時として心に刻むのである。
私は、1934年、新潟県境の奥羽山脈を背にした福島県奥会津の雪深い農・山村に生を享けた。太平洋・アジア戦争による敗戦時は小学校5年、2年後は新しい教育制度による新制中学1年生として地元の中学校(小学校校舎の間借りで)に入学した。高校も家庭の事情で都会の高校には行けず、地元の高校(これも中学校舎の間借り、定時制→1年後全日制)に学んだ。私にとって社会的目覚めは早く、中学2年時には全校生を前に極東軍事裁判について発表したのであったが、次第に社会の矛盾を感じたのは、えてして歴史的に農家(百姓)が最も搾取され被抑圧者の立場にあるのにもかかわらず体制には従順で、かえってなぜ保守の地盤なのか、ということにあり、隣部落「小栗山」の百姓一揆の義人「小栗山喜四郎」(最期は斬首)に関心を寄せたことであった。ときあたかも最高裁第一回国民審査があり、地元の立志伝中の人ともいえるH氏が裁判官としての名を見出したとき、私は法律で身を立て貧しき者に身を捧げる決意をしたのであった。しかし現実は厳しく、大学進学もままならず(高校時同様母の反対)、家出同様の形で中学の恩師のお世話で福島市のご自宅に書生として住い、1年浪人後地元の教育系大学に入学したのであった。さて、大学の寮(12人部屋)に入ってまず先輩からの洗礼は毛沢東・スターリン全集を読め、と目の前に差し出されたことにあった。スターリンにはよい印象は持っていなかったが、学園に慣れるにつれ、次第に自由のみならず人間の解放・社会的平等を主張するマルキシズムの真理性に惹かれていくことになり、本格的にマルキシズムの視点で法律を学ぶ決意を固め、まず退学して今の2年コース(短期教員養成)から4年コースに最入学、更に憲法講演に来福されたH大(マルキシズムの牙城といわれた)のN教授と出会い、1958年4月同大の三年に編入学、マルクス法学に取組むことになる。しかし、その年の12月、私の頑健な体にしても肺結核という思わぬ病魔に侵され、これまた父(母を亡くして間もない)の求める帰郷を押切って、大学の紹介で川崎・向ヶ丘にある学生サナトリウム(日本で唯一のもの、日本学生奉仕団<WUS>経営)に緊急入院に至ったのであった。
さて、絶対安静が解かれた2月、2階のベッドから1階に降り、応接室兼図書室で何気なく手にしたものが塚本筆『聖書知識』であり、その断片録?を読み背筋が走ったのは絶対者の存在が迫ってきたことにあった。史的唯物観に立っていた私は、ベッドにもぐり、そんなことはない、と否定するほど更に迫り、数日間悶々とした折掲示板にあった『芽(めばえ)』(伝道誌)を見、筆者たる既知の坂井基始良氏(今井館矢内原忠雄聖書集会門下、「時事通信」記者、矢内原先生のご配慮で、時事問題の話に来ておられた)にお手紙し、結局療友数名と氏よりロマ書の学びを始めたのであった。私の回心と聖書との出合いである。今思うに、自我の強い私がかく心的転回に至ったのは、塚本の直截な神信仰と坂井氏の単純・純粋な人格が私の心を捉えたものと思わざるをえない。1年半の療養入院ののち、60年5月末坂井先生のご配慮で開寮3年目の登戸学寮(創始者「黒崎幸吉」〈内村鑑三の弟子〉)に入寮したのであった。入寮時に要した提出文は「科学的社会主義と無教会信仰の弁証法的合一」。純福音に満ちた万人平等社会こそが私の理想社会なのであった(使途言行録4章32節以下を見よ)。ところで、復学して始めて大学に行ったのが6月15日、時あたかも新安保条約が参議院で可決直前に当り(19日成立)、全国的な反対運動のピーク時で、全学挙げての抗議集会に出、スクラムを組んで国会に向かい、明治維新団(右翼)の乱入、機動隊との激突といった騒然たる中で樺美智子さん(T大生)が圧死した現場に在ったのである。深夜帰寮して、里見安吉寮長が食堂で一人祈っておられた姿が今も胸を突く。帰寮する者(寮生36名)殆どなし。寮でも逮捕者3名が出、その一人のK君(T大生)は『マルクス主義とキリスト教』を一緒に読んだ寮友だったが、のち鉄道自殺したのだった。
(二)高橋先生の赴任時は、学生運動の高揚期をひきずり(ポスト安保)、あの70年代荒れる大学紛争の前夜ともいうべき時に当っていた。したがって、まさに先生の伝道者としてのスターとは、福音とこの世との対峙(内村鑑三のいう「真理と真理の応用」の問題<1903年斎藤宗次郎の花巻非戦論事件における言>)を赤裸々に迫られた時であったが、先生は「この世に生きることに徹底」され、かつ福音が福音たることの主張を貫き、その姿勢は生涯変わらなかった、のである。4月9日、始めての聖日礼拝を私はこのように記している。「花吹雪(寮入口にある桜並木の満開)実に見事な光景である。正しい愛は神の愛にぬかずくことである。高橋集会開会の先生の言葉。先生の幼な児の如き謙虚な態度は好感がもたれる。これが信仰の尊さと言うものだろうか。鋭い含蓄のある御伝へは胸を打つ。ひしひしと。先生の伝道に栄光あれ!」。出席者―寮生9名(寮生は外の集会・教会出席自由)、ほか5名、計14名とある。実は場所は寮長室を用いたことで、その異例の手段を取られたのにはそれなりの事情があったことで、しばらくして礼拝の場である食堂に復帰されたのであった。
先生が寮長を退任して野に出る直前の65年1月、『十字架の言』誌が創刊され、権力意志(注)こそは滅亡への道であるといわれ、福音の原点にしっかと立ち、生の原点であるキリストの愛に生きる道を鮮明にされたのであった。しかし、この考えは矢内原門下ではむしろ異色であって、多くは矢内原の社会科学者としての側面を継承し、世俗の職業を持ち、社会科学的分析を重んじ、信仰の証しをする生き方が大半であって、先生の信仰に立った一刀両断的思考にはむしろ慎重で(大体矢内原の生前に独立伝道者の道を選択されたのは、先生以外ないと思う)、時あたかもベトナム戦争をどうみるか、具体的には民族解放戦線なのか権力意志(この場合は共産主義思想というイデオロギー支配)なのか、で坂井対高橋論戦が公に展開され、お二人を信仰の師とする私にとっては私の生の根源を問われる重大事であったのであった。(これについては拙論文「キリスト者のこの世との戦いについての一考察」と題し『十字架の言』300号記念に際し寄稿している)。この問題は噴出した大学紛争でも続く。高橋聖書集会内でも、私達の多くは、真摯な学生の願いを正面から受止めようとしない大学当局が問題なのであって(矢内原門下も概して学生に同情的)、自己変革を迫る姿勢を支持し、先生の学生の論を首肯しつつもそこに権力意志というマモンがはたらく悪魔性を見る以上真の解決にはならないとするお考えと対立したのであったが、先生は譲ることはなかった。しかし、先生は、一線は画しつつも、いかに具体的に隣人への愛に満ちていたか(根底にある贖罪感)は、たとえば台湾・高俊明牧師、アイヌ・江賀寅三(シアンレク)牧師、韓国の趙完杰牧師・李昶雨教授(教会者)等々、また韓国・台湾の教会・無教会との具体的支援・交流、国内のキリスト者(教会含む)にたいする愛の業はあのナルド会基金の捧げを見ても歴然とするであろう。とくに私の係る在日問題についても支援を惜しまれず、二度に及んで在日者を集会に招待し、激しい日本に対する告発にも耳を傾けられたのであった。即ち先生の姿勢は、根底に流れる福音に固着しつつも、信仰と現実をしっかり踏まえた地の塩的一元的生き方を貫徹された、といえるのである。
また、平和・天皇制問題について一言すれば、通常では加齢化するほどに保守化するのが通例であるが、先生はそれとは逆により鋭くラジカル(急進的というより根本的)になって行かれたところに、思考の柔軟さ、すごさがあると思う。とくに天皇の問題については美佐子夫人の方が悲惨な空爆体験(女学生として軍需産業に従事、九死に一生を得、大半の級友を失い自ら傷を負う)をお在りの面もあってか天皇の戦争責任・天皇制については厳しく、先生は神観の視点で受止められていたのであったが、晩年には偶像神の視点で鋭く批判されたのであった。
二、伝道者としての生涯
(一)無教会伝道者の道としての徹底 ひとことでいえば背水の陣的職業選択―伝道一筋、経済的基盤は天国からのマナのみ、という職業牧師ならぬ厳しい無教会的独立伝道者として生きる道、しかも学会には属せず、かつ学問的水準を極めつつ平易に聖書を説くという研鑽と伝道の道をとられたことである。この選択は、内村始め無教会二代目(そして三代目の)伝道者のスタンスにはほかならないが、この命をかけた気迫ある伝道がいかに人の心を打ったかを知るのである。しかし、その反面、家庭が犠牲となり、母(伝道者の妻)の苦労を見た子供がいかに父を捉えたか、は一筋縄では行かなかったことも事実であろう。人間とはままならぬホモサピエンスなのでもあろう。彼等先人に学んだ私達が、まず生活の安定を図り、紳士的にスマートに伝道に励むとすれば、かえって結果は大方失敗に終わろう。しかり、いま無教会に問われているのはまさにそのことなのであって、伝道の原点に立ち帰ることを要しよう。伝道は神のみ業であって人の計画で達成されるものでないことはいうまでもない。いまこそ先人より継承すべきは神に命を懸けた気迫的伝道なのであって、そこにこそ神の言葉は生き、人を生かすのであろう。真の伝道は、語る人の人格を通して成るもので、教会者のように教会に繋がるのではないまさにここに無教会伝道の本質があったのではないのか。しかし、人間とは弱い者で、そこには人物崇拝というマモンの誘惑に絶えず引っ張られ、信仰の本質がすりかえられた悪しき面が今の無教会に顕在化しているのも事実であり、先生がしばしばいわれた「私を見ないでイエスを見よ」を肝に銘ずべきなのであろう。その意味でも、なぜ教会は毎聖日を厳守し、また基本的に一人の牧師によって語られ、また信徒への執成しをなすのか、その本旨を謙虚に学ぶ必要がある。洗礼・聖餐を第一義とせず、ただ霊と真(まこと)とをもって神を拝し、生きることを第一義とする無教会が、現実に聖日を厳守し、命を懸けて生きているのか、生きたエクレシアが形成されているのか、その意味でも先生から継承すべきは何なのか、あらためて噛みしめたく思うのである。
(二)無教会の道の徹底 真理としての無教会信仰とは何か、先生は生涯かけて探求され、真理として歩まれたのであったが、結果として無教会のみならず多くの教会者の中にも賛同を得た特異ともいえる現象を紐解く鍵は、その無教会論が福音の真理として人の心を打つからであり、より具体的には、内村を始祖とする独特の純福音という枠に留まる(これならセクトに堕する危険)のではなく、純福音の徹底とは、長いキリスト教史の伝統の厚みに連なる福音の複合的理解(内村のいう真理の楕円形的理解)の徹底こそ逆に単純帰一の福音―無教会とされたことにあるのではあるまいか。その意味で、十字架の言誌終刊号(08年8月号、533号)における「新約聖書の構造」でいう<真理表現の複数性―福音の二重構造の中に深い真理がひそんでいる>とは先生の遺言であると私は受止め継承したく願う。無教会とは何か、そのエクレシアの本質はマタイ伝18章20節にあるが、それを求める無教会における「教会なき教会(エクレシア)」の探求は、いわば不可能事を可能とする哲学的永遠の課題ともいえて、山に登るに幾つかの道があり、各道は相異なる難所在りで、人は命を懸けて頂上に向かうのであって、それは真理を求めて日々真実に歩む求道者のふくよかな人生にも譬えることが出来、無教会とは何か、と常に福音の原点に立ち帰り、真理を求めて歩む姿勢こそ私達にとって肝要ではなかろうか。
いま私達に問われているのは、第一は地の塩的キリスト信仰の徹底であり、それは地の塩としての土着と、かつ土着に捉われない普遍的キリスト信仰のヨコとタテとの十字的生き方であると思う。信仰的には復活の信仰を起点に、愛と義の十字の軋りの中で生きるに尽きよう。第二は化学万能・偶像崇拝(目に見えるものにすがる)の社会が益々普遍化する社会にあって、キリストのまことの父を指し示す純福音の徹底に各自のかけがえのないタラントを生かして、恵みを分かち合う闘いに参与し得るか、であろう。物神化時代における深刻な人間疎外、力あるもの・組織に魅力を持ち、キリスト教社会にあっても壮大な教会・儀式に目を奪われ、また反面では霊性・霊力を強調して人を惹きつける、そのような神ならぬものを神とする現代社会にあって、いかにまことの神を知らしめるか、不人気とも見える既存の教会・無教会の真価がいまこそ問われているのであって、悩める人々が真の生きるオアシスに至るべく力をそそぐべきものと思う。
無教会の道はむしろ茨の道であり、辺境(フロンティア)に仕える細き道(砂漠の中の一滴)、少数者の道(多数者にはなり得ない、国教化された後のローマ・キリスト教会の堕落を見よ)なのであり、イエスの十字架の道(第一コリント1一章18節)に学べ!といいたい。勿論あえて少数の道を選ぶ訳ではないが、その覚悟が肝要ということである。なぜなら、この世はサタンの世に支配されているのであるから、神の国の実現は生易しいことではない、といえるからである。
三、最期に先生の「単純性」ということに触れておきたい。先生はドイツ的思考のドライさを持ち、率直を尊び、その視点で人を見抜く眼力を備えておられた、のだった。したがって、日本的ウラ・オモテを使い分ける思考、和的(個性を殺し、集団<全体>に迎合する)思考は好まれなかった、と思う。その単純さとは、私の体験として、当方からの直言に対しても直ちに反論されるということはなく、静かに耳を傾け、必ずといっていいほど是非を明確に述べ、生かしてくださったことへの感謝は尽きない。それは、私を対等の一人の人格として尊重され、信頼の証しでもあったと有難く思う。そのことから、私はさらに神に忠実でありたく願ってきた。私達のこの集会でも、五〇年近い歩みのなかで、この世がそうであるように、様様なこと、また時には感情等のもつれなどあるのはむしろ当然で、その中でなにを信頼してエクレシアを形成していくか、コリント教会でのパウロの腐心そのままの姿がまた私達の集会でもあるのである。先生との誤解も、私の体験として、先ずは私側の先生にたいする姿勢の問題であることを実感している。先生の言われる言葉をどう受止めるか、たとえばある方が、先生が「私を尊敬しなければ言葉は伝わらない」と言われ躓いた、と言うのを聞き、「尊敬」→「信頼」と置き換えれば、先生はしばしば「語る者を信頼しなければ言葉は伝わらない」と言われたことを想起するのである。尊敬という人物崇拝的用語に受止める思考にこそ言葉の悪魔性の危険を見るのである。
つまりは、私達の信仰は幼な児のごとく単純であれ、といいたい
真の真理の継承とは何か。絶えず先生の背中を見、イエスをキリストと信じる信仰に立ち返る努力、先生のいわれる「真理への畏敬」、そしてその真理の継承ということに尽きよう。
私達にとっての真理とは何か。それはイエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じ、いな、復活を基点に、イエスの父なる神のご経綸に基く神の国の完成を信じ、主の証しをし、地の塩として生きることに在る。
この考えを世俗の中でどう生かし、生きるか、その人のスタンスー生きざまが問われることになるのではないか。 (2011年1月16日、渋谷聖書集会「コイノ二ア」で語ったもの。)
(注)「神は死んだ」といったドイツ哲学者二―チェの著『権力への意志』に通ずる。
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