教会の頭(かしら)なるキリスト
ーコロサイ書一章9〜23節―

                       

坂内宗男


 (一)
 10月3日の聖日礼拝で大津昌源兄が「まことの集会(エクレシア)」(マタイ伝18章18〜20節)を語られましたので、それに啓発されまして、私達のこの新集会の発足(8月29日)に当り、集会の在り方について改めて考えて見たいと思います。
 コロサイ書はパウロ書簡13巻中の獄中書簡3巻の一つでありまして、しかもパウロの名を冠した書簡(第二パウロ書簡)6巻の一つとして、おそらくは異邦人キリスト者が「帝都ローマの獄中にあるパウロからコロサイ教会の信徒たちに送った書信」の体裁をとった書簡といわれております。しかもこの地に福音を伝えたのはパウロが第3次伝道旅行の途次エぺソに在り、弟子エパフラスの派遣で為されたことは明白です(1章7節)。当時のコロサイはアジア(今のトルコ)のエペソ(エーゲ海沿岸)のやや奥地にあるヒエラポリス・ラオデキアと共に三角形を為した小都市の一つで、羊毛の産地として栄えたのですが、今は全くの荒地で痕跡を留めていないことは三年前現地を訪ねて知ったことでした。成立年代はパウロ殉教(61年頃)後80年代に当り、教会内での異教的教え(グノーシスなど)を是正し、福音の真理を闡明にすることを目的にした壮大な宇宙論的キリスト論を述べたものです。なお、コロサイ書を土台としてエペソ書は成り(90年初頭)、より強くキリストと教会の一体性を述べていることも付言しておきます。

 (二)
 Hこういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、霊≠ノよるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、Iすべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って身を結び、神をますます深く知るように。Jそして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、K光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。

 さて本題に入りますが、ここはコロサイの信徒に対する挨拶(1〜2節)に次ぐ神への感謝(信仰・希望・愛<第一テサロニケ1章3節>に思いを馳せ)を述べてのち信徒たちのために祈願しているところです(原文は17節まで一文)。それは、神の御心に添って歩むためには、御霊に基づく御心を知る知恵(教会にはびこる人間の知識ではなく)を察知することが肝要で、そのためには神の御旨を行う善行により深く神を知り、十字架の言葉による栄光の神の力(第一コリント1章18節)を身に請けて主に生きる喜びをもって何事にも忍耐すること、光の中に聖なるものの一人に預からせていただいた主なる神に感謝することだと祈り、願っているのであります。
 私はとくに「忍耐」に心うたれました。便利という文明の物欲にとり付かれ、かえって精神的貧困をもたらし自らの首を絞める人間の実存(絶えることなき人殺しー戦争、原水爆の現出と死の灰〈放射能〉という悪魔性、歯止めなき環境破壊と地球の危機的有限性などなど)は、神にある忍耐→和解(愛)を忘れた罪の実相であるからです。

  L御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。Mわたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 筆者の思いはさらに信仰の中心たるキリスト論に入り、23節に至る大キリスト論にまで展開いたします。御父により私達を御子の支配に移してくださったとは、暗黒のサタンの支配する世界からキリストの光の世界に私達は移された(神の国での神の子としての歩み)ということでして、それはキリストの贖いによる罪の赦しなくしてはあり得ない消息だ、といえましょう。

 N御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。O天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。P御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。Qまた、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。R神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせ、Sその十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 ここはキリスト讃歌で満ち、本来の伝承のものに筆者が手を加えたもので、17節まではキリストと万物(宇宙)との関係を述べ、キリストは神の生み給えるひとり子(被造物にあらず)であり、万物の創造はキリストによらずして何一つ創造されることなく、万物は全てキリストのものだ、と断言します。ここには筆者が復活のキリストと出合った回心体験なくしては語り得ないのを思わせられます。18節以下は、キリストと教会(このコロサイ教会)との関係に具体的に立ち入り、本題であるただ「キリストこそが教会の頭」であって、また神と万物との唯一の和解者である、と喝破する背景には、本質を見失った現実の教会の姿があり、あのエペソ書の「敵意を十字架にかけて滅ぼし(2章16節)」た隅のかしら石たる仲保者キリスト・イエスが重なって想起されましょう。然り、かかるキリストによって真の教会(エクレシア)が形成され、神の御経綸により神の国が成るのであります。神の救いは個人の幸福の類ではなく、教会も人を救う便宜教ではなく、キリストは偉人でもなく、ただ本質に立ち返るところに主の御手は働くのであります。

 (21)あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。(22)しかし、今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。(23)ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

 筆者は、ここで改めて福音は希望であることを強調しております。22節までは回心したキリスト教徒の聖なる実相を述べ、結語としての23節は、どんな弱きキリストのエクレシア、いな弱いエクレシアであるが故にキリスト中心のエクレシアに立ち返ることにより、受けし福音の恵みの杯はあふれ、それは世界大の共有される福音にほかならず、キリストに仕える者、即ち身を殺してこの地に地の塩としてしっかり足を据え、受難を甘受し、ただキリストのために生きる生涯こそ希望に満ちて神に嘉せられ、真の神の国の形成にあずかるキリスト信徒の姿だと受け止めるのであります。
 以上を見るに、神から離反した人間が、教会の頭たるキリストの十字架の贖い、キリストの死(による復活)に合わせられることにより、神とカオス(混沌)に満ちた宇宙万物との和解と平和が成った事実こそ神より与えられたわれらの福音(喜びのおとずれ)なのであり、この救いほど大なる福音はないというのであります。

  (三)
 私はここで「根の営み(ルーツ)」と「イエス・キリストのみ」の一体不離についてあえて述べさせていただきます。まず「教会の頭なるキリスト」とは教会(エクレシア)の中心にあるのはただ「イエス・キリストのみ」(マタイ伝18章20節)であって、ふたり(ひとりではなく)または3人相集まりエクレシアが成り立ちますが、例えば目に見えた教会たる建物、洗礼・聖餐といったものはエクレシアにとって本質的のことではなく(無益といっているのではありません)、キリスト信仰の精髄はただ「イエス・キリストのみ」にあり、私達の信じる無教会信仰が「教会なき教会(エクレシア)」という永遠の課題を追い求めるのもただこの一点にあるからです(『季刊無教会』も「イエス・キリストのみ」を標題に記しております)。いやそんなことはカトリックでもプロテスタントもみな思っていることだよ、との反論が聞こえてきますが、現実には例えば信徒勢力の拡大に力を注ぎ、この世にパラダイスを現出するため壮大なる建物(教会)を競い、また洗礼・聖餐を信徒たる保証の踏み絵とする差別を日常的に行っているのが世にいう教会の姿であるといって過言ではないでしょう(いま日基教団の洗礼を受けてない信徒を聖餐式に与らせた牧師の解雇<牧師にとっては死刑を意味する>をめぐって分裂騒ぎが起きている本質を見失った無益以上に有害なバトルを考えても見よ!)。私がエキュメニカル(超教派的)な教会・諸団体のなかで共に長く活動して感じることは、この世の何ものにも捉われない無教会信仰の恵みを痛感し、職業牧師の労苦に同情しつつ、他方わが無教会がその恵みを生かせず、かえってたこ壷化(自己満足)している実体にも歯軋りせざるを得ないのが現実なのです。
 次に教会(エクレシア)とは、そこにいきなり教会が生まれたのではなく、必ず根の営み(ルーツ)があり、その上に立って教会があり、その中心にイエス・キリストがおられるということであって、その逆ではない、つまり根無し草としての教会は成立しないということであります。現にコロサイ教会も、あのダマスコ途上でキリスト信徒の迫害にもえたパウロがイエスの現臨に出合って回心し、迫害を覚悟でアジア→ギリシャ(そして帝都ローマへの夢)と三度も決死の伝道旅行を行い、その流れの中で生まれた教会の一つであることはまがうかたなき事実であって、パウロとエパフラスの祈りの結晶でもあり、彼等の主なる神の祝福としてその教会の中心にイエス・キリストが現臨しておられるということは明白でありましょう。それを忘れた根無し草教会は、人物崇拝に基く分争(コリント前書1章10節以下)や異端思想などに簡単に取り込まれ崩壊するのは必定なのであります。内村鑑三の二つのJ(JAPANは不要との論に対し)や世界市民思想なども、ルーツをしっかり踏まえ、かけがえのないそのタラントを生かすことが肝要なのであって、そもそも天に国籍を持つ私達の視点も、一人ひとりが神よりあたえられたかかる考えが根底にあっての生き方なのです。
 かかる意味で教会とイエス・キリストとの関係が、一方のみが強調されることなく、一体性の緊張関係において成り立つことが最も主に嘉せられる教会の姿といえましょう。
  然り、わが渋谷聖書集会も同じ線上にあるのです。その前身の高橋聖書集会は無教会伝道者高橋三郎先生が約50年に及ぶ心血を注がれた伝道の場(エクレシア)であり、またそのキリスト信仰の人格的系譜をたどれば、矢内原→三谷→内村→クラーク(札幌農学校)→シーリー(アマースト大)→ピューリタ二ズム→果てはイエス・キリスト→ヤハウェ神(神の似姿<創世記1章27節>)にまでに至り、わたし共もその恩恵の系譜にあることを夢忘れてはならないのであります。このことをあえて申上げるのは、10月11日のヨシュア会臨時総会(於今井館)でのひとりの会員発言にその危険性を察知したからであります。ヨシュア会は「福音信仰において一致するキリスト信徒が、伝道のため互いに協力する祈りと愛の共同体」として高橋聖書集会のメンバー(高橋先生もそのお一人であった)を中心に形成されたもので、集会の皆様と労苦を担い、共に祈り、集会の事業を具体的に支え、年に一回は全国から同志が集まり、この一年の信仰の闘いを分ち合い、共に学び(読書会)、祈るイエス・キリストを中心とした生命共同体であることです。また、そのかぎりにおいて外に自由に開かれた会でもあるのです。勿論会員でなくとも自由に参加ができます。それを、たとえば中高生聖書講座の支援を問題にし、カトリック・プロテスタントも含めた事業体であるかの如き発想自体大変危険な考えです。高橋先生が唱導し、高橋聖書集会から生まれた中高生聖書講座こそは関西にて長く続いた同類の聖書の集いがなくなったいま、この小子化の時代にあって、キリスト信徒の家庭に開かれた貴重な存在であり、ヨシュア会の行うべき大事な働きの一つなのです。またカトリックやプロテスタントなどとの共同の働きや経済的支出などは、個人の立場、自らの属する同類の会として為すべきであって、ヨシュア会はかかる事業体ではないのです。
  高橋先生が聖日礼拝でいわれたことは「わたしを見ないでイエスを見なさい(人物崇拝への戒め)」「集会はどんな集会でも欠如体であるので、それを補ってくださるのはイエスの愛であること(エクレシアの重要性)」「恩恵ドロボーになるな(恵みの分ち合い)」でした。
 私達集会が今日ある恵みを感謝し、弱きエクレシアであるからこそ聖霊をいだいてキリスト・イエスを中心にお迎えし、背後に流れる信仰の系譜を謙虚(絶対化することなく)に恩恵として受け止め、福音の厚み(真理の複眼性)を大事にし、開かれたエクレシアとして日々上を向いて歩みたく願うのであります。
 (2010年10月17日、渋谷聖書集会「聖日礼拝」で語ったものです)

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