『神はさけ所また力なり』 (201)2021,1
坂内宗男
神はわれらのさけ所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たとえその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。(詩篇第46篇1〜3節、口語訳。)
●通例大晦日は近隣(遠くて名古屋)に住む家族達6〜7人と共に迎えることから、私達夫婦だけの年越しは結婚して56年余になるが殆ど経験がなく静かなものであった。これは一重にコロナ禍のなせる結果であって、静謐な社会には程遠く、異常社会にある現実を直視したい。
●イエス・キリストを信じる者にとっては、年ごとにイエスの降誕を心して迎えることが、加齢と共に、より喜びと共に復活の希望で満たされる。神の独り子が人の姿を以て飼い葉桶という家畜の場に生まれた奇跡自体がイエスの生を規定し、貧しき者・圧迫された者に身を寄せた生涯を示し、時の権力者ヘロデ王にとっては不安(うろたえ)に転じ、イエスの生まれたベツレヘム近在の男子2歳以下を抹殺する挙に出たほど敵意の対象であった。その結果、結局罪なきイエスが人の罪を背負い、十字架の極刑に処せられた歴史的皮肉。しかも離反した弟子達の前に、復活というありえない奇跡を通して真の神の愛を知らしめ、目からうろこが落ちた弟子たちが受難を背にかかる喜びの福音を伝えるため全世界に散じ、今の私達にも伝えられた聖書の真理がある。
●コロナ禍を契機に、文明という人間主義の傲慢がいかに緑の地球を破壊し、結局自らの首を絞めているか、原子核問題や環境破壊に見るまでもない。地球・宇宙という大自然の前に謙虚であれ!。各自の生きる「さけ所」に立ち、自国・自分第一主義を捨て、心通う共生社会を真剣に考察すべき待ったなき時ではないのか。*日曜集会場が杉並区に変りました。
杉並聖書集会(名称変更)10日イザヤ48:1〜22 24日マタ25;14〜30
渋谷聖書集会:17日ルカ20:27〜44、草加集会(未定)使・言1:12〜26
戻る |