ねらわれた学園 97年度劇場版

★★

 

原作は、言わずと知れた眉村卓の古典ジュブナイル。

薬師丸ひろ子を主演に据えた、

大林宣彦監督の81年度劇場版が有名だ。

 

原作では「関耕二」という少年が主人公だったが、

大林監督が実写化するにあたって、

ヒロインを主人公に置き換えた。

「アイドル映画」としての魅力を高めるためだろう。

この伝統は、16年経ってリメイクされた本作にも受け継がれている。

81年度版では、なぜかヒロインの名前を「三田村由香」に変更したが、

97年度版では原作どおり「楠本和美」となった。

「楠本和美」を村田和美、「関耕二」を柏原収史が演じる。

 

どこからともなく現れ、

平和な学校に突如として君臨した、

謎の生徒会長、高見沢みちる。

彼女は「校内パトロール」と称し、

「学園の風紀を乱す生徒」を片っ端から弾圧する。

和美とその仲間たちは、

みちるの独裁政権に立ち向かうが、

力及ばず、一人一人抹殺されていく。

ついには、和美にとって唯一の家族である母親にまで、

みちるの魔の手が忍び寄る──。

 

もし、学校という「権力」が、

(本来なら被・支配者である)一人の生徒によって、

支配されてしまったらどうなるか?

 

──この仮想が、物語のキモである。

「高見沢みちる」(そしてその背後に潜む「京極」)という支配者は、

思春期特有の過剰な自意識を具現化したものにほかならない。

だからこそ『ねらわれた学園』は、

時代を問わず、若者たちの共感を得ることができるのだ。

 

したがって、語り口は大げさであればあるほど、良い。

81年度劇場版では、

リアリティを完全に放棄したスラップスティックになっていたし、

また97年度劇場版の後に放映されたテレビ版では、

荒唐無稽に徹して、『新世紀エヴァンゲリオン』的なオカルトSFに仕上げていた。

当然、賛否両論あるだろうが、僕は両方ともうまくいったと思う。

 

だが、そこをいくと97年度劇場版は、なんとも中途半端だ。

学生たちの日常を繊細に描く、レトロな青春映画風の演出と、

非現実的なSFテイストが、完全に乖離している。

 

とくに、高見沢みちる率いる学園パトロールが、

ナチスの親衛隊よろしく大仰な身振りを交えながら、

生徒たちを取り締まるシーンなんて、

どう考えても真剣にやっているようには見えない。

が、かといって笑えるわけでもない。

妙に感傷的な恋愛描写が、作品のテンションを下げているせいだ。

 

なんだか、映画版『うずまき』みたいだな。

でも、映像が綺麗なのと、主役がしっかり「演技」できているぶんだけ、

まだ『ねらわれた学園』の方がマシである。

 

とは言え、主演の村田和美をクローズ・アップした「アイドル映画」として観れば、

それなりに楽しめる作品だ。

エラの張った顔立ちは少々クセがあるけれど、

それでも清楚な雰囲気を醸し出しているのは、

村田の演技力の高さを実証している。

 

とくに印象的なのは、雨の降る朝のシーン。

普段は自転車通学の耕二が、雨のせいでバスに乗る。

和美は、離れたところからそっと彼を見つめた後、

曇った窓に向かい、「雨の日も、好きだな……」とつぶやく。

青春映画の定石をうまくなぞっていて、目に心地よい。

 

もちろん、こうした無意味に完成度の高い「青春シーン」の存在によって、

ホラー的演出の幼稚さが対比的に強調されてしまい、

映画作品としての体裁を破綻させているのは事実だ。

しかし、そういったシーンがあるおかげで、

この映画を嫌いになれないというのもまた、事実なのである。

 

または、「高見沢みちる」を演じた、

佐伯日菜子の「アイドル映画」としても楽しめるかもしれない。

佐伯は、『エコエコアザラク(テレビ版)』で見せた不気味な存在感を、

『ねらわれた学園』でもフルに発揮している。

あのたどたどしい口調は、素なのか自己演出なのかわからないが、

独特のイビツなムードをさらに印象づける。

テレビ版で「高見沢みちる」を務めた、

馬渕英里何のコケティッシュな魅力とは対照的だが、

それぞれに違った「味」があって面白い。

 

だが、いずれにせよ、SFとしてのレベルは低い。

この物語の設定は、

支離滅裂でなにがなんだかさっぱりわからないのだ。

それでも、なんとか解読していきたいと思う。

 

まず、原作では、

高見沢みちる率いる校内パトロールが取り締まるのは、

「学園の風紀を乱す」不良生徒や、

みちるの独裁政権を批判する教員だけだ。

 

しかし、この映画版では、

みちるが校内に足を踏み入れたとたん、

一部の生徒たちが超能力に目覚める、というエピソードが加えられている。

これは、原作にない展開だ。

そして彼らもまた、不良たちと同様に排除されていく。

こうして、「学生が『正義』の名の下に同じ学生を粛正する」という、

原作のシチュエーションの恐ろしさが、曖昧になってしまった。

 

みちるは、耳に聞こえないノイズを使って、

生徒たちを密かに洗脳し、意のままに操っていた。

しかし、そのノイズが通用しない者もいる。

それが先述の「にわか超能力者」であり、

主人公の和美も、そのうちの一人だ。

 

じつは彼らは、未知の力を持つ「新人類」であった。

そして遠からぬ未来、

新人類は世界に君臨し、旧人類を家畜同然に支配するようになる。

 

高見沢みちるの正体は、

「京極博士」によって、現代に送り込まれたアンドロイドだった。

みちる曰く、

人類の進化は、和美たちの学校を起点に始まったとのこと。

そこで彼女は、この学校から生まれる新人類を抹殺することで、

人類の進化を食い止めようとしていた。

 

ところが、みちるの正体に気付いた耕二は、

今更思い出したかのように、自分の正体を打ち明ける。

なんと彼は、みちると同じく未来からやってきた、

旧人類のリーダーだったのだ! ……なんというご都合主義。

 

耕二曰く、

人類の進化が加速した原因は、

みちるが時間を遡って、

この学校にやってきたことなのだという。

そのせいで、時流に影響を及ぼし、

分岐点が生じてしまった、という理屈だ。

 

なんじゃそりゃ? 辻褄が合わないではないか。

みちるが来なければ時流が歪まなかったというなら、

なんでみちるが現代にやってくる事態に陥ったんだ?

そもそも「時流が歪んだこと」と「人類の進化が促進されたこと」が、

どう関係あるんだ?

 

まぁ、いずれにせよ、

和美たちの学校が人類進化の起点となったのは、

みちるのせいなのだ。

たしかに、一部の生徒たちが「覚醒」し始めたのは、

みちるの到着がきっかけだった。

納得いかなくても、映画の中ではそうなっているんだから、

観客は黙って受け入れるしかない。

 

とは言え、疑問は尽きない。

耕二が現代にやってきたのは、

時空の流れを是正するためだという。

しかし、耕二はそもそも、

みちるが現代に来ていたことを知らなかったはずだ。

(げんに、みちるに対して「お前はこの時代の人間じゃないな? 目的は何だ?」と問いかけている)

上述の理屈に従うなら、みちるが来ようと来まいと、

耕二がやってきたことによって、どっちみち時流に影響を及ぼすことになる。

 

けっきょくのところ、

みちると耕二がわざわざタイム・トラベルしてきたのは、

何の意味もなかった。

みちるは無駄死にしたのである。

 

さて、使命を果たした耕二は、未来に帰っていった。

時空の流れは、元通りに修復され、

未来人たちが現れる前まで遡る。

生徒たちは何事もなく、

それまでと変わらない日常を再びやり直す。

和美の記憶にも、耕二やみちるの存在はない──。

 

なんだか、『ターミネーター』と『時をかける少女』をごちゃまぜにして、

失敗しちゃったようなお話である。

原作を改変するのが悪いとは言わない。

しかし、こんないかにも取って付けたような設定では、

脚本家の頭の程度を疑われても仕方がないだろう。

おまけに後味も悪く、

せっかく力を入れた「青春シーン」の爽やかさが台無しだ。

あぁ、かわいそうなみちる……。

 

評論家を燃やせ!(いいニオイさ)