礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2023年10月29日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
         「我は福音を恥とせず」 ローマ人への手紙 1:16~17


 中世のカトリック教会では、人が救われるためには「神の恵み」だけでは不十分で、「人間の功績(人間の側のよい行い)」も必要であると教えた。しかし凡人は十分に功績(良き行い)を積むことができない。そんな人間がなんとか神の前に「功績」を積んで、あるいは「功績」を差し出して神に認めていただくにはどうしたらよいか。このことが中世のカトリック教会の眼目となった。お金で功績が買えるとした免罪符(贖宥券)という「おふだ」の販売はその最も悪質な形のものであった。
 マルティン・ルターはこの免罪符販売に抗議し、1517年10月31日付で『九十五ケ条の提題』を書いた。この文書はすぐに印刷され、2週間でヨーロッパ全土に広がり、本格的な宗教改革へと展開していった。彼は破門されてしまい、新しい教会(プロテスタント教会)の成立へと展開せざるを得なくなった。
 宗教改革は一言で言うなら“聖書を読む運動”である(徳善義和師)。ルターが聖書を読み、そこで教えられた真理を様々な形で人に分かち合い、聖書に聞くことを民衆全体のこととしていき、教会と社会の改革が進められた。29歳で神学博士となったルターが最初にした講義は「詩篇」であった。彼は31:1の「あなたの義によって 私を助け出してください」ということばに行き詰った。「神の義」とは当時の彼にとっては「神の高い義の基準であり、そこに達しない人を罰するところの義」であった。その神の義がどうして私の助け、解放、救いになるのかわからなかった。
 同じことばが出てくる71:2を講義の準備をするため、彼は塔の小部屋で「神の義」(ローマ1:17)について何日も祈り、黙想し、苦闘し、ついに福音(良き知らせ)としての「神の義」がわかった。「神の義」とは、神が罪人にプレゼントしてくださる義、しかも、信仰をもってそれをひとたび受け取ったなら、私たちのものになる義である。そして、神の義の基準を満たす方、神に従い、十字架で罪の償いを果たし、死んでよみがえったイエス・キリストこそが「神の義」なのである。罪人はただ神が与えてくださる義、イエス・キリストを信仰をもって受け取るだけで、義なるキリストのゆえに、神に義と認めていただき、神の子とされ、救われる。このルターの「福音の再発見」の体験がルターの宗教改革の原動力となったのである。この福音が私たちをも活かす。
 宗教改革記念日にあたり、「福音」の信仰を新たにさせていただこう。「聖書」を読み続け、聖書を聞き続けよう。聖書を通して、聖なる神がイエス・キリストによって罪深い私たちを救ってくださる、救い続けてくださるという「恵み」を覚え続けよう。福音に示されている神の恵みに驚きながら、ますます「信仰」をもって「イエス・キリスト」を受け取り続けよう。イエス・キリスト無しに救いはない。「イエス・キリストがすべてである」と思い知って、ますます神とイエスを愛させていただこう。そして「今あるは神の恵み」、私の人生のすべては神のプレゼント、「ただ神にのみ栄光あれ」と賛美をささげてゆこう。
 「義人は信仰によって生きる」。神の恵みにより、義なるイエス・キリストのゆえに、イエス・キリストへの信仰を通して義と認められた「信仰による義人」は、これからもただ信仰によって生かされる。信仰によって永遠のいのちに生かされていく。