礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2023年1月22日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
            「王妃になったエステル」  エステル記 4:1~17


 エステル記には「神」「主」などの神の御名が出てこない。しかし、だからこそ、かえって出来事の背後に隠れつつも確実に働きたもう神のお姿が印象深く示されていると言える。

 エステル記の主人公のエステルは、ユダの民の捕囚からの帰還とネヘミヤによる城壁の完成の中間の時代、紀元前478年にペルシアの王クセルクセス一世(アハシュエロス)の正室となった。彼女のいとこで親代わりのモルデカイはペルシアの王の家臣で、有力な人であった。
 宰相ハマンは「すべての人はハマンの前にひざまずくように」という王命を得ていた。しかし、神のみを礼拝するモルデカイはハマンの前にひざまずかなかった。怒ったハマンはモルデカイのみならす、モルデカイの民族ユダヤ人を皆殺しようと企み、ユダヤ人を皆殺しにせよという法令を発布した。ユダヤ人は灰をかぶり、泣き、断食した。モルデカイもそのようにし、王宮に行ってエステルへの伝言を頼んだ。自分の民族のために王にあわれみを求めるようにと。エステルは、正室であっても王の許可なく王のもとに出向くことはできず、もしそうしたなら死罪に処せられてしまうと躊躇した。モルデカイはエステルに伝えた。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」(14)。エステルは、ユダヤ人を集め、断食して、私のために祈ってくださいと応答する。「私は、死ななければならないのでしたら死にます」(16)。
 摂理の神が働き、ユダヤ人は殺されず、ハマンが処刑された(5~10章)。

 これらのことから教えられることは何だろう。
 第一に、生ける神、摂理の神を信頼することである。モルデカイは、神の民への助けと救いは必ず神から来ると確信していた。彼は生ける神、摂理の神への全き信頼を持っていた。私たちもすべてのことをご支配しておられる生ける神、摂理の神を信頼しよう(ローマ8:28)。
 第二に、神の摂理によって「私は今ここに、このような状況に置かれている」ということである。私たちが今ここに生きているのは、神の目的があってのことである。私たちは神の御前で静まり、聖書のみことばを聴き、祈り、黙想しながら、神から自分に与えられた使命をしっかり確認させていただこう。
 第三に、「今、ここで、これをする」、それが神のみこころであることを確認したなら、自分に今与えられた使命を確認したなら、それを一生懸命にやってみることである。
 第四に、自分の使命について、しかるべき人と分かち合い、継続的にとりなし祈ってもらうことである(16)。
そして、第五に、兄弟姉妹のために、人々の祝福と救いのために切にとりなし祈ることである。とりなしの祈りをリクエストし合い、とりなし祈り合う。この祈りの交わりを通して、神が豊かに働いてくださるのである(エペソ6:18~20)。

 それぞれが置かれた状況で、その人にしかできないことがある。主なる神は私たちひとりひとりを通して何事かを行おうとしておられる。神は小さな私たちを通して、永遠の神の国の完成につながる何かをなそうとしておられる。私たちは神にひたすら祈り、兄弟姉妹に祈られながら、日々を神の時と受けとめ、自分に与えられた今日の使命に生かしていただこう。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わすに行いなさい」(ピリピ2:13~14)。
 「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)。