礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2022年12月11日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
          「選ばれたマリア」      ルカの福音書 1:26~38


 御使いガブリエルがマリアに、神の御子イエスが宿ると「受胎告知」をする記事である。

Ⅰ 処女懐胎(1:26~33)
 ガリラヤのナザレに住むヨセフは、同じ町のマリアと婚約していた。当時の慣習からして、マリアは10代半ば。当時の婚約期間は1年間であり、法的にはすでに夫婦であったが、一つ屋根の下に共に住み、性的関係を持つことは、結婚まで待つことになっていた。
 御使いはいきなり現われ、マリアが男の子を産むと告げる。その子は第一に、「イエス」と名づけられる本物の「救い主」。第二に、「いと高き方の子」、「神の御子」、すなわち、「神」なる方。第三に、永遠に続く終わることのない神の国の「王」。そのようなすばらしい方を処女のマリアが身ごもる!

Ⅱ 神が人となる(1:34~37)
 マリアは事の重大さを悟り、結婚前の自分に「どのようにして(how)」そのような事が起こるのかと、その筋道を尋ねた。御使いはマリアの問いに丁寧に説明をする(35~37)。聖霊なる神がマリアに臨み、神の力が彼女をおおう。このようにして、彼女は処女でありながら男の子を身ごもる。御子なる神がマリアの胎のうちで人となる。それゆえ、生まれる子は「聖なる者、神の子」である(35)。親類エリサベツも高齢でありながら身ごもった(36)。人類を救う神のご計画、神の御業はすでに本格始動している。「神にとって不可能なことは何もありません」(37)。
 罪人である人間を救う救い主は、私たち人間の罪を負うのだから、私たちと同じ人間でなければならない。しかも、私たちの罪を負い、十字架で身代りに神の刑罰を受け、罪の償いをしてくださる救い主自身は、決して罪があってはならない。しかし、通常の出産で生まれる者はすべて罪をもって生まれてくる(ローマ5:12、詩篇51:5)。完全な神(子なる神、神の御子)が、罪ある人間の完全な救い主としてこの世に来られるためには、男性との性的関係なしに処女がみごもり出産するという、超自然的な方法が必要であったのである。実に、処女懐胎とはもっとも奇妙なことに思えるが、実は最も理にかなっていることなのである。「ああ、神の知恵と知識との富は、なんと深いことでしょう」(ローマ11:33) 。

Ⅲ マリアの信仰(1:38)
 婚約中の懐妊には様々なリスクがあった。ヨセフからは不倫の嫌疑をかけられ、婚約を解消され、さらには石打刑(申命22:23~24)にされる可能性も。世間からは冷ややかな目で見られ、不貞を犯したという汚名を一生負うことにもなる。
 しかし、マリアはそれらのリスクも含めてすべてを受け入れた。「主(神)がともにおられる」(28)と語られたことに信頼し、ともにいてくださる主(神)ご自身に信頼して、不可能なことなど何もない神に自分を全面的にゆだねた。マリアは応答する。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)

 神は私たちにも申し出ておられる。「わたしはイエスにあって、あなたに宿り、あなたにおいて生き、あなたを栄光のために用いる」。私たちとイエスを結ぶ聖霊に身をゆだね、全幅の信頼をこめて神に応答したい。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」。