礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年12月4日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
       「口にすべきは感謝のことば」   エペソ人への手紙 5:3~7

5:1~7は、教会外の世の人々の中でのキリスト者の新しい生き方が意識されている。 

Ⅰ 聖徒にふさわしいことばを(5:3~4)
 「聖徒にふさわしく」(3)。「聖なる」という語の第一の意味は「取り分けられ、神のものとされた」ということ。イエス・キリストを信じ、キリストに結ばれた人はだれでも「神のものとされ、神に属する」聖徒。神は聖徒を、最終的に、御前に聖なる、傷のない、キリストに似た、愛に満ちあふれる者としてくださる(1:4)。それゆえ、私たちは聖徒にふさわしく、聖なる道、きよい道を選び取っていく。
 「不品行(淫らな行い)」「汚れ」「むさぼり」「わいせつなこと」「愚かなおしゃべり」「下品な冗談」などは、人を卑しめ、自分をおとしめることばであるゆえ、聖徒にふさわしくない。私たちが属する神の不名誉となる。気をつけたい。
 「むしろ、口にすべきは感謝のことば」(4)。感謝のことばは、悪しきことばが沸き立ち、吹き出すのを防ぐ防波堤である。神に感謝する以上に、神を感謝することが大切。神を感謝することは、神を喜ぶこと。神を喜ぶことは、神を礼拝すること、神を賛美すること。神を礼拝し、神によって心満たされるなら、感謝があふれてくる。そのような感謝の思いが、悪しき思いとことばと行いを抑えていく。「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」(ネヘミヤ8:10)。

Ⅱ 彼らの仲間になってはいけません(5:5~7)
 「淫らな者、汚れた者、貪る者」とは、それらの罪に身をまかせ、それらの罪を生活信条のようにして暮らしている人。そのような人は究極の偶像礼拝者。自分の意思を神のみこころよりも重んじ、突き詰めれば、自分中心、自分を神にしている。自分の心の王座に、生ける神ではなく自分自身を置き、また自分の欲望を置き、その自分の欲望をかなえてくれるものとして偽物の神を拝んでいく。「こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません」(5)。
 しかし、私たちキリスト者は生ける神を礼拝し、御国を確かに受け継ぐ者、聖霊の太鼓判を押された者なのである(1:11,13~14)。それゆえ、「だれにも空しいことばでだまされてはいけません」(6)。
 私たちは、愛されている神の子ども。罪の世から取り分けられた聖徒。キリストと神との御国を受け継ぐ者。それゆえ「彼らの仲間になってはいけません」(7)。「彼らに与(くみ)する者となるな」(文語訳)。彼らとともに生きながらも彼らの行いには加わらない。

 「キリスト者はこの世にあっても、この世のものではないのである」(『ディオグネトスへの手紙』)。それゆえ、神の愛を日々浴びるように受けながら、召された召しにふさわしく、愛すること、きよさを求めること、神を感謝することに徹し、御国への道を一歩一歩、歩み行かせていただこう。ただ神の栄光が輝きますように。