礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年11月27日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
         「愛されている子どもらしく」   エペソ人への手紙 5:1~2

 4~5章には「ですから…歩みなさい(生活しなさい)」が繰り返される。5:1~6は、教会内だけではなく、教会外の人々、世の人々の中でのキリスト者の新しい生き方が意識されている。

Ⅰ 愛されている子どもらしく、神に倣う者となる(5:1)
 私たちはキリストを信じ、神の子どもとされた(ガラテヤ3:26、4:6~7)。父なる神はイエスに対してだけでなく私たちにも「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ(喜んでいる)」(マルコ1:11)と言ってくださる。
 父なる神は一番大切なひとり子(イエス・キリスト)を私たちに与え、ひとり子を私たちの罪の身代わりに十字架で犠牲にするほどに私たちを愛していてくださる。それほどまでに神に愛されているという実感が、私たちの新しき人の歩み、新しい生き方の原動力となる。「神に倣う者となりなさい」とは、ご自分のすべてを与え、私たちに救いの祝福を与えてくださっている神の「愛」に倣うということである。
 神は私たちのお父さん、私たちは神の息子、神の娘。ならば、子どもがお父さんに倣うのは当たり前のことではないか。もちろん完璧にできるわけではない。また完璧にする必要もない。できないながらも、懸命に神に倣っていく。それが子どもとしてのあり方である。 

Ⅱ 愛のうちに歩む(5:2a)
 「神に倣う」とは、神のような愛をもって生きること、自分を相手に差し出し、相手を受け入れ、相手に必要なものを与えていくことである。神の子どもとされた私たちキリスト者は、父である神に似て、相手の態度によって自分の態度を変えない「完全」な愛を持つべきである(マタイ5:44~48)。
 しかし、自分の力ではできない。だから「神に愛され、神を愛する」という関係が生き生きしているとが大切である。そのとき、人を愛することもできるようにされる。 

Ⅲ キリストが私たちを愛し、ご自分を神にささげてくださったように(5:2b)
 神と等しくあられた御子がご自分を低くし、徹底的に神に従い、徹底的に人を愛し、ご自分を十字架の死にまでも渡してくださった。このイエスの生と死のすべてが神に対する自発的なささげ物であり、私たちを愛する徹底的な自己譲与、自己犠牲の愛の実現であった。そして、このイエスの生と死のすべてが「芳ばしい香り」(創世8:21参照)、すなわち、神に喜び受け入れられるものとなった。
 私たちはこのキリストの愛に倣う。私たちに敵対する世の人のために、その人たちを活かすために、自分を与え、自己を犠牲にする愛に生きるように招かれている。そして、そのような私たちの自己犠牲の愛の生き方もまた、キリストのゆえに、神への芳ばしい香りとなる。私たちの愛に徹する生き方を神は喜び受け入れてくださる。

 「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)。私たちが愛をもって歩むとき、私たちは神の心、キリストの心をより深く実感し、神またキリストとますます心通い、神とキリストとの愛の交わりにさらに深く入れられていく。これにまさる喜びはない。