礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年11月6日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(召天者記念礼拝)】
            「私はいつも主を前にしています」 詩 篇 16:1~11


 詩篇は「信仰者のたましいの解剖図」(カルヴァン)。ダビデの真実な祈りを聴こう。

Ⅰ 主なる神への全き信頼(16:1~4)
 主なる神との交わりがすべての喜びの源である。しかし、主なる神との交わりから私たちを引き離そうとする力が常に働く。だからこそ、私たちは一目散に神のもとに逃げ込む。
 主なる神のほかに「幸い」のない信仰者は、しかし孤独ではない。主なる神に何でも打ち明けることができる。主なる神との交わりに生きる「信仰の同志たちとの交わり」をも恵まれる。地にある聖徒たちには信仰から出る輝きがある。彼らの存在もまた喜びである。

Ⅱ 主は私への割り当て分(16:5~8)
 「主は私への割り当て分 また杯」(5)。主なる神はご自分のすべてを信仰者に与えてくださる。主なる神は御父・御子・聖霊の三位一体の神。父なる神(御父)はご自分を与える代わりに、ご自分と一体の御子を私たちと同じ人間となし、私たちに与えることを通してご自身を与えてくださった。人となられた御子イエスは、その生涯と十字架と復活と昇天と聖霊降臨とをもって、私たちの救いのためにすべての事を成し遂げてくださった。さらに御父はこの御子を通し、やはりご自身と一体の聖霊を私たち信仰者一人一人に与え、そのような形でご自分のすべてを私たちに与えておられる。聖霊は私たちの内に住み、御子イエスが成し遂げてくださった救いのすべてを与え続けてくださる。
 主なる神こそわが「人生(杯)」のすべて。
 私たちは聖徒たちと共なる礼拝、個人的なみことばと黙想と祈りを通して、主なる神の語りかけを聴き、主なる神がすべてのすべてであることを確認する。

Ⅲ いのちの道(16:9~11)
 主なる神との交わりから生まれる喜びと平安は、死によっても切断されてしまうことはない。ダビデは死の向こう側にあるものを見ていた。10~11節は、イエス・キリストの死者の中からの復活、イエス・キリストがよみがえっていのちの道を踏み、神の右に挙げられて喜びと栄光を受けることの預言(使徒2:25~28,31、13:35~37、へブル12:2)。
 死の向こう側にあるいのちの道が、イエス・キリストの十字架と復活と昇天とを通して私たちに明確に示された。私たちは聖霊によって、信仰を通してイエス・キリストに結ばれた者として、イエス・キリストの通られたいのちの道をたどることになる。
 『子どもと親のカテキズム ~神さまと共に歩む道~』(日本キリスト改革派教会大会教育委員会、2014年、教文館)から引用する。
 「問40 私たちは死んだあと、どうなりますか。
 答  死んで終わりではありません。死んだあと、私たちのたましいは完全にきよめられ、天におられるイエスさまのもとに引き上げられます。体はイエスさまに結び合わされたまま墓の中で休みます。」
 「問41 体は墓の中で永遠に休み続けるのですか。
 答 いいえ、ちがいます。イエスさまが再び来られる時、私たちの体もよみがえらされ、きよめられたたましいとひとつにされて、イエスさまの栄光の体と同じ姿に変えられます。私たちは、完成された御国で、完全な祝福を受け、永遠に神さまをほめたたえ、神さまを喜ぶのです。」
 
 私たちは、伴い、先立ち、かつ、ゴールで待っていてくださる主イエスを見つめながら、天の聖徒たちの声援を受けて、このいのちの道を進んでいく(へブル12:1~2)。