礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2022年10月16日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】  「エリヤの対決」   列王記第一 18:20~40

 預言者エリヤは紀元前9世紀前半、北イスラエルの宗教的堕落を立て直すべく預言活動を行った。

Ⅰ 預言者エリヤの対決
 アハブ王が北イスラエル王国に導入したバアル神は雨季と豊穣の源と信じられていた。エリヤがアハブ王の前で干ばつと飢饉の到来を預言したことは、バアル神礼拝への大胆な挑戦であった(17:1)。雨季も豊穣も支配しているのはバアルではなく、生きておられるまことの神「主(ヤハウェ)」なのである、と。
 Ⅰ列王18章はエリヤとバアル預言者との対決である。エリヤは自分とバアルの預言者たちが薪の上に雄牛を載せ、それぞれの神の名を呼び、火をもって応えた方を真の神と認定しようと提案する。集まった民はみな「それがよい」と言って賛同する(18:23~4)。
 先手番のバアルの預言者たち450人は、朝から昼、夕方まで、何時間にもわたってバアルの名を叫び続け、さらには、踊り回り、挙句の果てには自分の身を傷つけ、バアルを動かそうとした。しかし、結局何も起こらなかった。バアルの神など存在しないからである(Ⅰコリント8:4)。
 後手番のエリヤはただ一人立ち、民を近くに呼び寄せ、主の祭壇を築き直し(30)、薪も雄牛も祭壇もすべて徹底的に水浸しにした(34)。彼はただ静かに主に祈った(36~37)。「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った」(38~39)。
 エリヤはバアルの預言者との対決に勝つことだけを求めたのではない。彼はひたすら神の栄光が現れ、神がたたええられることと、そして、神の民の信仰が回復し、神の民が建てあげられることを求めた。そういうエリヤの祈りに、主は火をもって、恵みをもって、誠実に応答してくださったのである。

Ⅱ 「どっちつかず」ではなく
 エリヤは進み出て民に向かって言った。「お前たちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」(21)。どっちつかずでは、活ける神の栄光と力は十二分に現されなくなる(Ⅱ歴代16:9)。
 私たちは「どっちつかず」になりやすい。主なる神を信じていても、同時に心の中に偶像を立ててしまう。偶像は作り上げられた神。主なる神よりも時に大切になってしまい、私たちの心を支配してしまうものである(名誉、学歴、富、趣味、快楽、仕事、家族、教会、国家、英雄・・・)。 
 しかし、主なる神は「どっちつかず」ではない。主なる神、天の御父は常に私たちに誠実に向き合い続けていてくださる。私たち一人一人にまっすぐに心を向け、愛をもって真剣に目を注いでいてくださる。ご自身にとって一番大切な御子を賜るほどに(ヨハネ3:16)。
 私たちはこの御父のまっすぐな愛を覚えながら、日々この神に心をまっすぐ向け直していく。神を第一にし、神をあがめ、神の栄光を求めながら、神が賜った恵みとして、一つ一つのこと(家庭、仕事、学び、奉仕、趣味)も大切にし、それらに真剣に向き合っていく。こうして、私たちは主の栄光を仰がせていただく。「主こそ神です。主こそ神です」。