礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 2022年9月18日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
        「むなしい心で歩まない」   エペソ人への手紙 4:17~19


 4:17~24は「召しにふさわしい歩み」(1)、「新しい人としての歩み」の根本原理的な勧めである。

Ⅰ 異邦人のむなしい心(4:17)
 「召しにふさわしく歩む」(1)とは、「異邦人がむなしい心で歩んでいるようには歩まない」ということ。
 異邦人の生き方は、「まことの神を神としてあがめない」ゆえに、「むなしいもの(神ならぬ神=偶像)で心が占領され」、「むなしいものによって人生が支配され、人格が振り回される」生き方である(ローマ1:21)。神より大切にしているものはすべて偶像である。実に「人の心は偶像製造工場である」(カルヴァン)。
 神をあがめること、神礼拝、ここに立ち戻る必要がある。

Ⅱ 神のいのちから遠く離れ(4:18)
 「異邦人」すなわち「まことの神を神としない者」は「知性において暗くな」る(18、ローマ1:21)。神をあがめ、神を礼拝することから、聖霊によって心の目が開かれ、霊的知性、信仰的知性が豊かにされていく。
 さらに、異邦人、「まことの神を神としない者」は、「神のいのちから遠く離れています」(18)。これこそ霊的悲惨である(「ウェストミンスター信仰告白」6:6)。神との交わりがなくなり、神との間にいのちが通わなくなった霊的死の状態である。
 罪ゆえの悲惨な連鎖を心に留めなければならない。「まことの神を神としてあがめない」→「霊的・信仰的知性が暗黒」→「神に対する無感覚」→「神との生ける交わりからさらに離されていく」→「まことの神を神としてあがめない」→・・・・。この負のスパイラルをたどってはならない。

Ⅲ 好色に身を任せ(4:19)
 18節が「異邦人」すなわち「まことの神を神としてあがめない者」の内面の状態を暴露していたとすれば、19節はそのような者たちの外に現れる生活行動の様が描かれている。
 まずは神のみこころに対する「無感覚」。善と悪の区別がつかなくなるほど「良心が麻痺した」状態である(Ⅰテモテ4:2)。そして、「好色に身をまかせ」「あらゆる不潔な行いを貪るようになっています」。「あらゆる不潔を稼ぎ出している」。社会的、組織的な放縦・好色である。社会全体、世界全体が聖なる神のみこころとは真逆の方向にますます転がり落ちていくという感じである。聖なる神に向かって、目を覚まさなければならない。

 キリスト者は「むなしい心」が活けるキリストによって満たされた者、満たされ続ける者である(コロサイ2:10)。教会の「一致、平和、成長、成熟」のためには、教会員一人ひとりが異邦人のような歩みに陥らないことが求められる。「神には信仰、事には希望、人には愛」の生き方をしたい。