礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年8月14日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(平和祈念礼拝)】
                 「平和を求めて」 テモテへの手紙第一 2:1~3


 本日は「平和祈念礼拝」である。平和を求めて祈りたい。主の平和が完全に実現するその日まで。
 平和とは、人間の「存在」と「生命」と「人格」(愛し愛され、自由に生きる主体)が、神のみこころの通りに、尊重され、守られ、いよいよ豊かに輝いていくことができる恵みの状態である。人間の「存在」と「生命」が大切にされ、一人一人の「人格」が尊重され、自由と愛にあふれる交わりが豊かに保たれている状態こそが真の平和である。
 そう考えると、この世は平和がまったく欠如している。人類の代表アダムが神に対して罪を犯して以来、罪が世界に入り、死が世界に入り(ローマ5:12)、あらゆる関係における平和と調和が崩された。人は自己中心に考え、行動し、神を無視し、互いに思いやらず、被造物(自然界)は虚無に服して(同20)、あらゆる悲惨が起こることになった。しかし、神は人と世界を罪と悲惨からまったく解放する日(救いの完成の日)を定められた(エペソ2:10)。そして、救い主イエス・キリストによる和解と平和の道を開いてくださった(エペソ2:14、コロサイ1:20)。平和は究極的には神がつくる(イザヤ45:7)。それゆえ、私たちは平和を神に祈り求める。そして、私たちは「平和をつくる者」と召されている(マタイ5:9)。

 私たちは「すべての人のために」祈るように召されている(Ⅰテモテ2:1)。すべての人のために祈ることは、「神の御前において良いことであり」、神が喜んでくださること(同3)。私たちはすべての人の平和(シャローム)を求めて祈る。神はすべての人を愛し、すべての人にイエスの救いを差し出している(同4)。この神の愛の心を思い、私たちはすべての人のために心配り、祈りをささげる。といっても、世界約80億人一人ひとりの名をあげて祈ることなどできない。「すべての人のために」とは、「すべての類(たぐい)の人」のためにということ。
 国家の為政者たち、指導的な立場の人たちのため、彼らが神を畏れ、主の正義と平和を実現するために、正しい視点を持ち、献身的に仕えることができるようにと祈る。
 大勢の庶民のため、貧困や抑圧にあえいでいる人々のため、戦争や紛争の中にある人々のため、難民のためなど、一人ひとりのいのちと尊厳が守られ、日毎の糧が与えられ、平和を実感して生きることができるようにと祈る。
 そして、人々に暴力を振るう者、不正の富を蓄積する人々、私利私欲に走る独裁者のために。神が彼らを本当にあわれんでくださるようにと祈る。
 特に為政者のための祈りは大事。彼らが間違えば、多くの人のいのちと尊厳を犠牲になり、私たちの信仰生活も危うくするからである(同2)。

 私たちは「人類の罪」を自らの罪として受けとめ、「主よ、お赦しください」とうめくことが求められているのではないか。そのとき「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」(ローマ8:26)。
 平和を求めて祈る旅は今日も続く。それが私たちの御国への旅路でもある。