礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年7月3日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
      「神に栄光あれ」 エペソ人への手紙 3:20~21

 パウロは3:14から始まる壮大な祈りを「神に栄光あれ」という頌栄で締めくくる。

Ⅰ 私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に(3:20) 
 頌栄の基本の型は「栄光が神にあるように」であるが、ここでは神のことを「すべてをはるかに超えて行うことができる方」と言っている。パウロが神に対していかに大きな信頼と期待を持っていたかがわかる。
 パウロはキスト者たちのために大胆に祈った。キリストがその心にますます内住してくださるように。彼らがキリストの愛をますます知っていくように。そうして、神の充満にまで満たされるように、「キリストの満ち満ちた身丈にまで満たされるように」(4:13)、キリストと同じほどに愛に満ち、いのちに満たされるまでに至りますようと。
 パウロの祈りは欲張りすぎか。そうではない。神は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」だからである。だから神に信頼して前に進む。神はすばらしい。栄光は神にあれ。

Ⅱ 教会において、キリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでも(3:21)  
 「どうか、私たちのうちに働く御力によって」(20)とある。神は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて」事を行われる。しかも、神はそのすばらしいことを「私たちのうちに働く御力によって」なしたもう。その御力は1:19~20にあるとおり、キリストを死者の中からよみがえらせ、天に引き上げ、御父の右の座に着かせたところの大能の力である。その御力が私たちキリスト者個々人の中に、また、キリスト者の共同体である教会に働き続けている。そのようにして、私たちの救いは成し遂げられて来たし、これからも成しとげられていく。教会共同体も育てられていく。
 「教会において、またキリスト・イエスにあって」とある。「神の栄光は、神の罪深い被造物(教会)と、永遠の罪のない御子(キリスト・イエス)を結び付ける恵みの中に最も輝いて見える」。罪深く、弱く、乏しい私たち、また、私たちの信仰共同体。その暗闇の中に光が輝いている。神の御子でありながら、人となり、十字架で死んで私たちの罪の贖いを成し遂げ、復活して、永遠のいのちにあふれる生けるキリストが私たちの中に、私たちの聖徒の交わりに臨在しておられる。そして、私たちの罪を赦し続け、私たちを神の子どもとして愛のうちに成長させ、永遠のいのちへと導いて行かれる。キリストとの交わりの中に活かされている教会。そこでこそ、神の栄光、神のすばらしさは輝く。
 教会は神の「恵みの栄光」が輝くところ。神の恵みの栄光のゆえに神をたたえるところ。教会の生活を本当に大切にしたいのである。

 栄光、特に恵みの栄光が、世々限りなく、とこしえまで神にありますように。アーメン。