礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年6月26日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
      「ピリポの宣教」     使徒の働き 8:4~8, 26~40


 宣教は神の働き、聖霊の働きである。本日の箇所は、エルサレム教会の「かの7人の奉仕者」の一人ピリポの宣教のこと。彼もまた「御霊(聖霊)と知恵に満ちた」(6:3)人であった。

 ステパノの出来事(6:8~7:60)の後、ユダヤの宗教指導者たちはエルサレム教会をますます迫害するようになったが、「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」(4)。彼らはこの迫害を通して神のわざがなされていくことを悟り、逆境の中で聖霊の導きを敏感に感じ取った。彼らは自分たちが福音の前進、神の国の前進のために聖霊に用いられていくことを大いに喜び、聖霊にまかせ、出会う人々に自然体で「みことばの福音を伝え」ていったのであろう。

 「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」(5)。ユダヤ人とは歴史的に敵対関係にあり、心情レベルで深い溝があった敵地とも言うべきサマリアで、ピリポの語るイエスの福音は受け入れられた。癒しの奇跡も伴い、大勢の人がイエスを信じた。「その町には、大きな喜びがあった」(8)。まさに神がなさった宣教の奇跡である。

 サマリア宣教の祝福を経験したピリポであったが、聖霊は御使いを通して彼を南の方、「エルサレムからガザに下る道」、「荒野」へと導いた(26)。そこにエチオピアの女王カンダケの高官で、女王に仕える宦官が馬車に乗って通りかかった。彼はユダヤ教への改宗者であり、エルサレム神殿での神礼拝を終えた帰路にあってもなお旧約聖書のイザヤ書を朗読し、黙想するほどの真摯な信仰者であった。ピリポは聖霊の指示によって馬車に近づくと、その人はイザヤ53:7~8の「苦難のしもべ」の預言の部分を読んでいた。徹底的に卑しめられ、「正しいさばき」も行われず、それでも黙々と刑場へと引かれ、いのちを取り去られた人物。これはだれのことなのか、とエチオピア人はピリポに問う(34)。「ピリポは口を開き、この聖書の箇所から初めて、イエスの福音を彼に伝えた」(35)。預言者イザヤが語っているのはイエスのことである。イエスは私たちを罪から救うために、十字架で死なれ、三日目によみがえられ、今も生きておられる。このイエスを信じる人はだれでも神から罪の赦しを受け、神の子どもとされ、永遠のいのちをいただいて、イエスといつまでも共に生きることができる。これが聖書の約束である。そう福音を語ると、その人はイエスを信じ、洗礼を受け、喜びをもって故国に帰った。

 ピリポは聖霊に満たされた人、聖霊に持ち運ばれた人であった。聖霊に導きに敏感で、聖霊の導きのままに、いつでもどこでも、喜びをもって、真実に、真剣に、イエスの福音を語った。

 宣教は神の働きである。宣教は主イエスの聖霊の働きである。聖霊の臨在と導きが宣教において肝心要である。そして、聖霊は私たちを宣教のために、イエスのことを知らせる働きのために用いようとしておられる。だから、私たちは神のわざ、宣教の前進のために祈る。神の恵みと力は祈りを通して働くからである。また、聖霊が私たちを用いてくださるように祈る。そして、私たちが聖霊の導きに敏感になり、従順に従うことができるようにと祈るのである。