礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年6月12日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
     「キリストにあって大胆に神に近づく」 エペソ人への手紙 3:10~13


 「キリストにあって大胆に神に近づく」礼拝の人生を私たちも歩き始めている。

Ⅰ 天上にある支配と権威に、教会を通して神の豊かな知恵が知らされるため(3:10~11)
 パウロに福音の給仕人の使命が与えられた目的は三つあった。第一に、異邦人に福音を宣べ伝えるため(8)。第二に、すべての人に神の奥義とその実現を明らかにするため(9)。そして、第三に、天上にある支配と権威、すなわち、天使たち(1:21)に神のきわめて豊かな知恵をまざまざと思い知らせるため(10~11)。
 しかも、「教会を通して」。教会こそ新しい創造(2:10,15)、神の多様な知恵による最高傑作。福音を語り伝えられ、神の奥義の全体、教理の全体を教えられることによって、生きたキリストのからだ、教会が建てられ、ユダヤ人と異邦人からなる、またその他の様々な違いを超えて「新しい一人の人」、キリストの一つのからだとなった教会が建てられる。その「教会を通して」、「神のきわめて豊かな知恵」が天使たちにも思い知らされる(Ⅰペテロ1:12)。教会は神の救いを体現する。教会はすごい力を秘めているのである。

Ⅱ 礼拝においてこそ、キリストにあって、確信をもって大胆に神に近づく(3:12)
 ユダヤ人と異邦人などさまざまな違いを越えてキリストにあって一つにされ、キリストのからだである「教会」に結ばれ、聖徒の交わりに生きる「私たち」は、「確信をもって大胆に神に近づく」。その中心にあるのが礼拝である。礼拝とは神に近づくこと、神と出会うこと。
 キリストが生涯と十字架と復活と昇天と聖霊降臨によって、救いのみわざをすべて成し遂げてくださった。私たちが付加すべき私たちの側の善行、功績は何一つもない。キリストこそ御父に至る唯一の完全な道である(ヨハネ14:6)。それゆえ、ただキリストを信頼して、「キリストにあって」、私たちは臆することなく、堂々と、大胆に、確信をもって、日々神に近づくことができる。そのような礼拝においてこそ、神の知恵と力が現わされる。

Ⅲ 苦難もまた栄光(3:13)
 パウロはローマで長らく囚人の身であった(3:1)。しかし、彼は異邦人キリスト者たちに言う。「私が異邦人伝道のために受けている苦難を恥じる必要はない。私の苦難は、異邦人であるあなたがたの存在が神の目にはそれほどまでに価値がることを物語るものである。だから光栄に思ってほしい」と。
 パウロの苦しみはキリストのからだなる教会の苦しみ、それはキリストご自身の苦しみでもある(コロサイ1:24)。主イエスご自身の苦しみをともにする光栄、主の心と一つにされる幸いを、「キリスト・イエスの囚人」(3:1)パウロは、キリストにつながれ、キリストという獄の中で深く味わわされていたのである。

 キリストにあって大胆に神に近づく者は、苦難の中にも神の知恵を見、神の栄光を仰ぎ見る。