礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年4月24日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
           「宣教命令」 マタイの福音書 28:16~20

 イエスを信じるキリスト者は皆「イエスの弟子」である。新約聖書には、主イエスが弟子たちに与えた二つの大命令がある。「愛の大命令」(22:37~40)と「宣教大命令」(28:19~20a)である。

Ⅰ ガリラヤの山の上で(28:16~18a)
 十一人の弟子たちはイエスの指示通りガリラヤに行き、指定された山に登った(16)。彼らはイエスと再会し、イエスをまことの「神」と認め、イエスに礼拝をささげた(17a)。
 しかし、「疑う者たちもいた」(17b)。凄惨を極めた十字架からの復活は、それほどまでに信じがたい奇跡だったのである。しかし、イエスは「疑う者たち」を「不信仰だ」と責めたり、見放したりはしない。イエスは疑う者、信仰薄き者に、ご自分の方からさらに近づいて、ご自分の復活の確かさ、ご自分が生きておられることの確かさへと招き、恵みにあずからせようとしてくださる(18a)。

Ⅱ 宣教大命令(28:18b~20a)
 死からの復活によって神としての権威を揺るがないものとされたイエスは(ローマ1:4)、天と地に及ぶ主権者として宣教大命令を十一弟子たちにお与えになった(18)。彼らは代々の教会の代表として、代々の弟子たち・キリスト者たちの代表としてイエスの命令を受けた。宣教大命令はすべての教会、すべてのキリスト者たちに託された使命である。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(19~20a)。
 この命令、この使命の中心は「人々を弟子としなさい」である。「人々をさらにさらに弟子として立て上げていきなさい」。そして、この主目的実現のために3つの手段が示されている。第一に「行って」。イエスが疑う弟子に自ら近づいたように、私たちも自分の方から相手に近づいて行く。第二に「バプテスマ(洗礼)を授け」。人々に福音(イエスの十字架と復活と顕現、イエスの救い)を語り、イエスへの信仰に導き、洗礼を授け、教会の一員として迎え入れる。第三に「教えなさい」。聖書が教えていることを過不足なく教え、神を愛し、隣人を愛する愛の人として立て上げていく。
 では、あらためてイエスの「弟子」とは何か。マルコ3:14~15が浮き彫りにしてくれる。イエスの弟子とは、第一にイエスといっしょに生き、イエスと親しく交わる者。第二に、福音を宣言する者。すなわち、イエスにおいて神の国(神の愛のご支配、神の救い)が来ていることを宣言する者(マルコ1:15、マタイ10:7)。第三に、悪霊追い出しに代表されるような「いやし」をもたらす愛の奉仕によって、神の国(神の愛のご支配、神の救い)を証しする者。
 「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」とは、「父、子、聖霊の(一つの)名の中へとバプテスマし」である。宣教とは、三位一体の愛の神との交わりの中に人々を招くこと。十字架と復活のイエスを信じることを通して神との和解にあずかるように導き、三位一体の愛の神との交わり(教会はその実現の場)に迎え入れること。三位一体の愛の神との交わりにとどまり、その交わりの中に生きていくように励ますことである。

 すべてのものが「イエスは主」と告白し、礼拝し、父なる神がほめたたえられるゴール望み見ながら(ピリピ2:10~11)、私たちも主イエスの派遣(宣教命令)に喜び従いたい。それぞれに置かれた境遇、与えられた賜物を感謝しながら、心を一つにして、主イエスの弟子として生きていこう。イエスは命令とともに、約束を与えていてくださる。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(20b)。