礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年3月13日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
       「キリストとともに生かし」   エペソ人への手紙 2:1~7

 「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせ」(1:19)たもうた神の大能の力が、「私たち信じる者に」も同様に働いた。神は私たちを霊的死からキリストとともに生かし、キリストとともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださった。

Ⅰ 背きと罪の中に死んでいた者、生まれながら御怒りを受けるべき子ら(2:1~3)
 これは私たちの以前の姿である。「自分の背きと罪の中に死んでいた」。聖書において「死」は存在の消滅ではない。死とは「分離」である。霊的「死」とは、「霊魂と身体を含めた全人格」が「神」から分離していること。
 「不従順の子ら」とは、「神への不従順を特徴とする人々」である。人間的には善い人であっても、神に背を向けているなら不従順ということになる。それはまだ神を知らず、イエスを主としていない、未信者の生き方、非キリスト者の生き方である。
 「空中の権威を持つ支配者、不従順の子らの中に今も働いている霊」。キリスト者はキリストの勝利のゆえに、サタンと悪霊の束縛から解放されている(コロサイ2:15)が、世にある限り、最前線にあって、サタンと悪霊の勢力と衝突し、戦いを展開していく(6:11~12)。
 「私たちもみな」(3)とある。パウロを含むユダヤ人キリスト者たちもみな、異邦人キリスト者と同じであった。パウロを始めユダヤ人はモーセの十戒や旧約の律法を守ろうとしたので、異邦人のように不道徳に身を染めることはなかったかもしれない。しかし、実のところ、やはり「自分の肉の欲のままに生きていた」のである。皆が「御怒りを受けるべき子ら」であった。

Ⅱ 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった恵み(2:4~7)
 「しかし」。不従順の子らに対する神の御怒りが主たる情景ではなかった。それは恵みの光が輝く舞台背景であった。主役は「神」である。救いの希望、新創造の光明はただ恵み豊かな神からのみ与えられる。
 「キリスト・イエスにあって」「ともに生かし」「ともによみがえらせ」「ともに天上に座らせ」(5~6)。ここに、キリストに結ばれた結果もたらされる、私たちの新しい霊的立場が語られている。今地上にありながら、同時に、私たちはキリストとともに天に座している。神の御前にある。神の栄光の中に、神の臨在の中に生かされている。これが私たちの霊的現実なのである。しかし、なかなか実感できない。だから聖霊(の働き)がさらに必要。聖霊こそ、私たちに、キリストとともに生かされ、キリストとともによみがえらされ、キリストともに天上に(神の御前に)座らせられている実感、喜び、祝福を味わわせてくださる方。
 私たちが救われたのは究極的には神の栄光のため、「恵みの栄光がほめたたえられるため」(1:6)である。私たちは神のために救われている。「もし神が、キリストを死者の中からよみがえらせてご自分の右の座に着かせたことが、神の御力の最高度の証明であるなら、高く上げられたキリストの立場を分かち合わせるために、キリストにある人々を霊的死からよみがえらせたことは、神の恵みの最高度の証明です」(F・F・ブルース)。

 「来るべき世々に」(7)は、この世でも、来世でも、完成された永遠の御国でも、ということ。私たちは神の恵みを世々に渡って、永遠に証拠立てる神の不朽の名作である。私たちそのものは土の器、欠けだらけ、力なく、罪と弱さばかり。しかし、その土の器が、「キリスト・イエスにあって」、キリストとともに生かされ、よみがえらされ、ともに天上に座らせられている。この土の器から天の光が、神の恵みがあふれ出ている。