礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2022年2月27日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】 「バルティマイ」 マルコの福音書 10:46~52 イエスはご自分の受難と死と復活を予告しておられた(32~24)が、イエスの十二弟子たちは理解できず、イエスについて行くこともできなかった。彼らと対照的なのがバルティマイ(52)。 イエスはエリコに着いたが、またエリコを出て行かれた(46)。イエスがエリコを出た先にいたのがバルティマイである。イエスは彼と出会うために、彼を目指してエリコの町を出て行かれた。 バルティマイは目が見えない。道端に座って物乞いをしている。でも、人々のざわめきは聞こえる。いまここに「ナザレのイエスがおられる」と聞いて、彼は「この機会を逃したら、いつイエスと会えるかわからない」という切迫感をもって叫びをあげる。 バルティマイは「ダビデの子イエス様!」と呼ばわる(47~48)。「ダビデの子」とは、メシア(キリスト、油注がれた者)、すなわち、約束された救い主のことである(12:35)。マルコの福音書でイエスのことを正しく「ダビデの子」と呼んでいるのは、バルティマイだけである。 彼は日々道端に座って、人々がイエスについてうわさ話するのを聞いていた。イエスの教え、イエスの奇跡、イエスの振舞を耳にしていた。それら人々の話と、聖書のことば(旧約聖書)の断片的知識、両者をつなぎ合わせ、黙想し続け、イエスをメシアと信じるに至ったのである。 「私をあわれんでください」とは、自分の徹底的な無力さ、みじめさ、イエスがいなければ生きていけないという信仰告白である。信じるがゆえに、ますますイエスを呼ぶ。信じるがゆえに、イエスともっと深く出会いたいと願う。信じるがゆえに、イエスをますます求める。それが生きた信仰ではないか。私たちが週ごとに教会の主日礼拝に集い、日々みことばと祈りの時を持つのはそのためである。 叫び続けるバルティマイの呼び声にイエスは立ち止まり、「あの人を呼んで来なさい」と彼をお召しになる(49)。バルティマイはあまりの嬉しさに「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(50)。イエスとの親しい交わりに入れられることは何にも代えがたいこと、これがすでに「永遠のいのち」である。永遠のいのちの本質は、神との永遠の交わりである。 「わたしに何をしてほしいのですか」とイエスは問う。「見えるようにしてください」(51)。この語(アナブレポー)は「再び視力を回復する」「上を見る」の意である。彼が中途失明者なら、もう一度見たいという欲求は強かった。彼は見えるようになりたかったが、特に「上なるもの」、上なるお方を見たかった。イエスご自身を見たかったのである。 イエスはバルティマイの信仰にお応えくださった。イエスが見えない者の目を開けることのできるメシア(イザヤ35:5)であると信じ、そのイエスを信頼するバルティマイの信仰に、イエスはみごとにお応えくださった。イエスへの信仰を通して神の恵みの力が働いた。「すぐに彼は見えるように」なった。イエスご自身を見ることができた。イエスのお姿をはっきり見ることができるようになった。そして、彼は「道を進むイエスについて行った」(52)。 自分の力でイエスについて行くことはできないが、イエスに対して心の目がますます開かれ、イエスのお姿がますます見えるようになると、自然にイエスについて行くことができる。多くの試練を通されながらも、イエスと顔と顔を合わせて相見る永遠の御国への道を嬉々として歩むことができる。 やがて、私たちは「キリストに似た者になることは知っています。キリストをありままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします」(Ⅰヨハネ3:2~3)。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」(マタイ5:8)。 |