礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2022年1月23日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(ファミリー礼拝)】
             「パリサイ人と取税人の祈り」 ルカの福音書 18:9~14


 神との正しい関係はいかに。どうしたら神と真実な交わりを持つことができるか。

Ⅰ イエスはだれに教えておられるのか(18:9)
 「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している」(9、新改訳第三版)。これは人のたましいに巣喰う深刻な病ではないか。
 「自分の義」、自分の正しさ、業績、能力、志によって、自分を「義人」である、良い人、立派な人、見込みのある人であると評価し、他の人たちを「あの人はダメだ」と見下す。あるいは、自分よりも優れて見える人をうらやみ、自分より低く見える人を見て自己満足する。それが私たち人間が陥りやすい姿である。私たちも心してイエスに聴こう。

Ⅱ パリサイ人の祈り(18:10~12)
パリサイ人は旧約聖書の律法を厳格に解釈し、忠実に実行しようとする人たちであった。そうして、律法を徹底的に守っている自分の義(自分の立派さ、自分の功績)を立てようとした。
彼は祈りの中で、他人を意識し、他人との比較で自分を見ている。祈りの中で、他人と比較した自分の義を主張している。彼は聖所に真向かい、「神よ」と祈っているが、実は「心の中で」、自分に向かって、自分の素晴らしさを語っているに過ぎない。彼の意識は自分に向き、自分の素晴らしさに自己満足し、神の前に真実に立ってはいない。
「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している」なら、神との生きた交わりとしての祈りが成立しなくなる。

Ⅲ 取税人の祈り(18:13)
 取税人は聖所から離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(13、新改訳第三版)と祈った。彼の祈りは他人との比較ではない。ただ神の前に身を置いている。聖なる神の前に一人しっかり立っている。
 そして、自分の義を立てない。神の前にも、人の前にも主張できるような義のかけらもない。ただ、罪を認め告白している。自分の弱さ、破れ、悲惨さを認めて告白している。そして、ひたすら神の「あわれみ」にすがっている。それ以外に彼は何もなしえないのである。

Ⅳ 義と認められたのは(18:14
 この取税人が神の前に義と認められた。「義」とは、「神との正しい関係にある」ということ。神が義と認めてくださるのは、自分の義で着ぶくれた者ではない。神の前に自分のありのままの罪深く弱い裸の姿をさらけ出し、ただひたすら神のあわれみにすがる者、そういう者が「神との正しい関係にある」と神に認められるのである。
 水は高きから低きに流れる。神の恵みと祝福も同様。神が遣わされた救い主イエスと助け主なる聖霊は、神の前に身を低くする者のもとに降りて来てくださる。神の聖さを見上げ、自分の底なしの罪におののき、ただ神のあわれみにすがる者に、主イエスと聖霊は豊かに働いてくださるのである。神は十字架と復活の主イエスを、聖霊において私たちに与えてくださり、その主イエスにあって、私たちの罪を赦し、永遠のいのちに活かしてくださるのである。

 神殿から家に向かう彼の顔には、神に義と認められ、いのちに活かされた者の輝きがあった。