礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2022年1月16日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
          「キリスト・イエスにある忠実な聖徒たちへ」 エペソ人への手紙 1:1~2


本日から主日礼拝で「エペソ人への手紙」(エペソ書)を読んでいく。「著者」はパウロ。「宛て先」は、エペソを含むローマ帝国アジア州の諸教会のキリスト者たち。「執筆場所」はローマ。「執筆年代」は紀元60年代前半、61年、62年ごろ。「主題」は「いっさいのものがキリストにあって互いに結ばれ、一つにされること」(1:10)すなわち「キリストにある(究極的な)一致」、そして、その核にあって役割を果たす、キリストのからだなる「教会」(1:22~23)である。
1:1~2は、この手紙の初めのあいさつである。

Ⅰ 差出人(1:1a)
「パウロ」はラテン語名で「小さい」の意味。ユダヤ人選民意識、エリート意識を乗り越え、身を低くして異邦人に仕えようとする彼の心意気を感じさせる。彼は年を重ねるほどますます小さくなり、へりくだり、自分を取るに足りないものとした(Ⅰコリント15:9、エペソ2:8、Ⅰテモテ1:15)。これがキリスト者の成熟である。
パウロはペテロたちのように生前のイエスと生活を共にしたことがない。神の敵であった彼はキリストの顕現に出会い、異邦人に仕えるようにと召された。彼は「神のみこころによる」特別な使徒である。

Ⅱ 受取人(1:1b)
「キリスト・イエスにある」(in Christ Jesus)は、キリストとの結合を意味する。「キリスト・イエスに包まれて」ということ。
私たちイエスを信じる者は、キリストの聖さ、キリストの忠実さのゆえに、聖徒また忠実な者と神にみなされている。そして、キリストに結ばれ、キリストにあって、ますます聖なる者、忠実なものとされていく。私たちはキリストなしには、聖徒でもないし、忠実な者でもありえない。
「キリスト・イエスにある」とは何よりも大切なこと。イエスは言う。「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4)。

Ⅲ あいさつ文(1:2)
「恵み」(カリス)は、神から私たちに惜しみなく注がれる好意。しかも、一方的に、値なしに注がれるもの。「平安」むしろ「平和」は「シャーローム」という語で、神がくださるあらゆる祝福を意味する。パウロはギリシャ的あいさつ「恵み!」と、ユダヤ的あいさつ「平和!」を合体させ、すべての聖徒たちに対する祝福を宣言し、祈っている。「恵みと平和があなたがたに」(「ありますように」は原文にない)。
神の恵みはいつもある(イザヤ30:18、詩篇52:1)。イエスにあって、聖霊を通して、いつも私たちに差し出されている。また、
平和の君、私たちの平和であられるイエス(2:14)は、聖霊において、いつも私たちのもとに来ておられる。それゆえ、パウロは「恵みと平和はあなたがたに(ある)」と宣言する。とともに、今あなたの前に差し出されている「恵みと平和を、キリストへの信仰を通し、ますます豊かに受け取ることができるように」と祈っている。心を高くあげよ!

いま開き始めたこの「エペソ書」、ここにあることばもまた、御父・御子・御霊の三位一体の愛の神から私たちに向けられた「恵みと平和」の大宣言にほかならない。喜びと期待をもって読み進めていきたい。「恵みと平和があなたに!」