礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2022年1月9日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
              「わたしに従いなさい」 ヨハネの福音書 21:18~25

「ヨハネの福音書」の結尾部分。私たちの生涯と死にも思いを致すところである。

Ⅰ 死においても栄光を現わす(21:18~19)
イエスはペテロがどのような生涯を送るかを暗示し、どのような最期を迎えるかを予告する。イエスの予告の通り、ペテロはネロ帝の時代に殉教の死を遂げる。
私たちの生涯も自分が思い描くのとは全然違う道を歩まされる。しかし、そのすべての道にイエスの御目があり、イエスの愛が注がれ、その道で神の愛と恵みに満ちた栄光が現われていく。死を通してさえ神の栄光が現れる。どのようにしてかは、具体的にはわからないが、神が必ずそうなさるのであり、イエスが知っておられる(詩篇116:15、115:1、『ハイデルベルク信仰問答』問1と答)。
それゆえ、私の生と死のすべてに同伴して導いてくださる方、私の生と死をもって栄光を現わしてくださる主に目を注ぐのである。「メメント・モリ。メメント・ドミニ」(死を覚えよ。そして、主を覚えよ)。

Ⅱ 「主よ、この人(ヨハネ)はどうなのですか」(21:20~22)
ペテロは「イエスが愛された弟子」(20、13:23、21:7)ヨハネについて、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに問う。人は他の人のことが気になる。
しかし、イエスは答える。「もしヨハネがわたしの再臨の日まで長く生きることがあっても、あなたとは関係がないこと。他人のことを気にして、きょろきょろするな。ひたすら、わたしを見て、わたしに従いなさい。わたしにとことん付き合いなさい」。
私たちキリスト者はみなイエスの弟子として、イエスと一緒に神のために働くように召されている。しかし、みな違った歩み、違った方法で神の栄光を現わすのである。

Ⅲ イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある(21:23~25)
「ヨハネ福音書」は、証言者であり刊行責任者である使徒ヨハネ、書き手であるヨハネの直弟子、エペソ教会の長老たち、最初の筆記者か冊子本製作者、そして、文体の違いから別の書き手によると言われる7:53~8:11を書いた人。これら複数の人の働きを通し、しかし一貫して神の聖霊が働き、権威ある書として今ここにある。
イエスが全能の神また支配者として、人の代表であり身代わりの救い主として、また歴史を通しての恵みの授与者として行われたことは数え切れない。その恵みの証しは日々に増し加わっていく。それら「一つ一つ書き記すなら、世界もその書かれた書物を納められない」。私たちキリスト者が経験するイエスの恵み、神の愛、聖霊によるいのちの交わりは無尽蔵に豊かなのである。

「わたしに従いなさい」。これは「わたしの愛にとどまりなさい」(15:9)というイエスの招きにほかならない。イエスにある三位一体の愛の神との交わり、ここにこそいのちがある。