礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年12月19日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(クリスマス礼拝)】
                 「博士たちの礼拝」 マタイの福音書 2:1~12


クリスマスは、救い主イエスを礼拝する時。それ以上でもそれ以下でもない。私たちは東方博士たちに礼拝者としてのふさわしい姿を見る。礼拝について大切なことを教えられたい。

 第一に、礼拝をするために、良心の光と聖霊の光に素直であることが大切である。私たちの良心の光は、神(超 越者)がおられ、神を礼拝するように促す。さらに、キリスト者は主の御霊(聖霊)を受けている。御霊は私たちの良心とともに働き、私たちを神礼拝へと強く促す。だから、礼拝に向かうためには、御霊の光に素直でなければならない。
 第二に、礼拝をするために、聖書のみことばの光に心開き、みことばに聴くことが大切である。みことばを真剣に聴くことによって、そのみことばを語りたもう救い主にお会いすることができる。
 第三に、礼拝は神を、救い主キリストを「拝む」ことである。神と主イエスの聖さ、偉大さのゆえに畏れおののきひれ伏す。自分の罪深さを覚えて、いよいよ恐れおののきひれ伏す。そして、そのように大きな私の罪を赦し、なおも罪深い私たちを受け入れてくださる、神の底無しの愛のゆえに、また、イエスの十字架の犠牲と現在の御父の御前でのとりなしのありがたさのゆえに、いよいよ畏れおののきひれ伏すのである。
 第四に、礼拝は神に、救い主イエスに、宝、大切なものをささげることである。自分をささげる。心、時間、労力、献金、賛美、祈りをささげるのである。
 第五に、礼拝するために、神に、イエス・キリストに近づくにあたっては、「すばやく」と「じっくり」の両方が大切であるということである。イエス・キリストの誕生したその日に知らせを聞いて、すぐに急いで何も持たずに駆けて行き、救い主を拝んだ羊飼い。それとは対照的に、良く準備をして、最高のささげものを整えて持って行った東方の博士たち。そのどちらも、救い主イエスの御前に進み行く私たちに必要な姿勢ではないか。
 第六に、礼拝するために、神に、イエス・キリストに近づくにあたって、神に、イエスにお会いしたい、救い主を礼拝したいという切なる願いを持つことが大切である。

博士たちはイエスがおられる家を見つけただけで「この上もなく喜んだ」(10、直訳は「大きな喜びを度はずれて喜んだ」)。まして、イエスご自身とお会いし、イエスご自身と向き合って礼拝したときの喜びは何にもかえがたいものであったであろう。
私たちも良心の光と聖霊の光に促され、みことばの光に導かれて、神と救い主イエスにお会いしたいという祈りをもって御前に進み出よう。11節にある動詞を拾い上げると、「入り」、「見」、「ひれ伏して礼拝し」「献げた」である。私たちも特に聖書のことばに教えられ、聖霊の光に導かれながら、主イエスの臨在の中に「入り」、主イエスを仰ぎ「見」、主イエスの御前に「ひれ伏し拝み」、主イエスに我が身を「献げ」よう。そこに真のいのちがあり、永遠の光と喜びがある。
イエスを礼拝し続ける歩みの中で、私たちの救いの希望も一層大きくされていく。救い主イエス・キリストの存在が私たちの中でますます大きくなっていき、キリストがすべてのすべてとなっていくからである。イエスと顔と顔を合わせてお会いし、イエスを間近に拝することができるワクワク感、東方博士たちのこの上ない喜びは、礼拝から礼拝へと進み行く私たちのものでもある(Ⅰペテロ1:8、Ⅰヨハネ3:2)。