礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年11月28日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(待降節第一)】
           「ザカリヤの賛歌」 ルカの福音書 1:5~25,57~80


「ザカリヤの賛歌」(68~79)は「ベネディクトゥス(ほむべきかな)」と呼ばれている。

Ⅰ ザカリヤの不信仰(1:5~25)

老祭司ザカリヤは神殿の聖所で香を焚き、民のために神にとりなし祈っていた。そのとき、彼は天使ガブリエルから御告げを受ける(8~17)。「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい」(13)。
しかし、ザカリヤは御使い通して与えられた神の御告げを信じず、何か証拠立てるものを要求した。信じ従う権威をみことばにではなく、他のものに求めたのである。この不信仰のゆえに、彼は話すことができなくなった。

Ⅱ 信仰、沈黙、賛美(1:57~68a)
心開いて神のことばを信じる者(1:26~38)は、さらに心を開かれ、神からの喜びにあふれ、神をたたえる(1:46~55、マリア)。一方、心閉ざして神のことばを信じない者は、語るべきことばを失う(1:5~23、ザカリヤ)。しかし、ザカリヤにとって沈黙を余儀なくされた10ヶ月は、子どもを賜った神のあわれみをかみしめると同時に、旧約聖書を基に神の救いのご計画を思い巡らす恵みの時となった。
夫妻に子どもが誕生して八日目、割礼と命名の日のことである。ザカリヤとエリサベツは親戚のことばや慣例にではなく、神のことばに従う。ザカリヤは御使いに言われたとおり(13)、神のことばに従い、その子をヨハネと命名した。この子が名付け親である神のものである、という信仰を告白したのである。
彼は神の主権を認め、神に従い、神を信頼し、その信仰のゆえに彼の口は開かれ、すぐに神を賛美した(63~64)。「賛美、それは沈黙のあふれ」(新垣壬敏氏)。神への賛美は神の前での沈黙を通して生み出される(使徒11:18)。「ほむべきかな、(われらの)神である主を」。

Ⅲ 主は私たちを覚え、救い、用いてくださるから(1:68b~80)

なにゆえ私たちは主なる神を賛美するのか。「主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた」(68~69)から。ダビデの子孫のイエスこそ私たちのために贖いをなし、私たちを解放し、「救いの角」として私たちのあらゆる敵を倒してくださる。
さらに、主なる神は私たちを覚えていてくださる(68b~73)。主は神の民との契約を覚えておられ、救い主による救いと、救い主を通して世界を祝福することとを、確かに実行してくださる。
また、主は私たちの「敵」、すなわち、悪魔、罪と死と地獄、恐れと不安、救いを妨げる妨害のすべてから救い出してくださる(71,74~75)。それは罪の赦しによる救いであり(77)、平和(神との平和、心の平安、人との平和、自然との調和)へと導くものでもある。
この救いは「高いところから」「我らを訪れ」る「あけぼのの光」(78、新共同訳)であられる救い主イエス・キリストによってもたらされる。
また、主なる神は私たちをも用いてくださる(74~77)。神は「救いの歴史」において私たちの存在と働きをも用いて、神の国(神の永遠の愛の支配)を進展させる。

神は人知をはるかに超えて豊かに施すことのできる方。「ほめたたえよ。神である主を」。