礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年11月14日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
          「神様にゆだねたダビデ」 サムエル記第一 26:7~25


サウルは主なる神に選ばれ、初代イスラエルの王として立てられた(9~10章)。彼は最初は順調だったが、やがて神への「不信仰」と「不服従」と「かたくなな心」によってどんどん落ちて行った(13章、15章)。彼が神に聞き従わないので、神は新しい王を立てることを決め、ベツレヘムのエッサイの八男ダビデを選んだ。最後の士師であり、祭司、預言者であったサムエルは神の命令にしたがいダビデに油注ぎ(王としての任職のしるし)をした(16章)。彼は羊飼いの少年にすぎなかったが、心が主なる神に真っすぐに向かっていた。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(16:7)。 
竪琴の名人でもあったダビデはしばしばサウルのもとに召され、王の心を落ち着かせるため竪琴を弾く奉仕をした。ダビデはやがてペリシテの代表戦士ゴリヤテを羊飼いの投石袋から放たれた石一つで倒し、正式に王に召し抱えられた(17章)。主が彼とともにおられたので、戦いに出て連戦連勝した(18:5,14)。彼はサウル王のねたみを買い、サウルによっていのちを狙われるようになった。ダビデは逃亡生活に入った(18~21章)。ダビデを慕う者たちが大勢彼の周りに集まり、彼と行動を共にした(22:1~3)。
24章で、洞穴に隠れていたダビデは、用を足すために同じ洞穴に入って来たサウルを殺すことができる機会を得たが、部下を制止して王を殺させなかった(24章)。ダビデは本日の26章でも、夜、サウルの幕営に忍び込み、寝ているサウルを見つけたが、同行したアビシャイが「槍で一気に彼を地面に突き刺させてください」(8)と願うのを制止し、先の時と同じく「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか」(9)と言って、王を殺害することを許さなかった。
サウルは先の24章でも、自分を殺さなかったダビデの前で泣き、ダビデを殺害しようと追い回している罪を認め、さらに、ダビデが必ず王となり、ダビデによって王国が確立するということを認めた(24:16,17,20)。にもかかわらず、今またダビデを殺そうと追って来た。サウルは自分の非を認めて悲しんだり、自分の罪を告白したりするが、それらは一時的で感情的、ダビデに対する敵意は一向に失せなかった。しかし、ダビデはサウルの態度がどうあれ、前と同じく気高い態度を少しもくずさなかった。
ダビデには勇気があった(6)。しかし、彼は何より神を畏れた。神への敬虔があった(9)。そして、神の摂理にゆだねる信頼があった(10)。敵を愛する愛があった。それゆえ、彼はサウルに手出しをしなかった。ダビデは神を離れて行動することを拒絶した。彼は自分をまったく主の御手の中に置いていた。彼は26章で「主(ヤハウェ)」という尊い御名(神ご自身の名。ご自身が結ばれた契約に忠実で、常にともにあられる神を表わす名)を何度も用いている(9,10,10,11,11,12,16,16,19,19,19,20,23,23,23,24)。
このように主なる神を意識し、事ごとに神を念頭に置いて行動する人はどんな時でも平和であり、敵の脅威の中にも神を見上げて平安である。敵から一歩退き、神の怒りを待つことができる。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」(ローマ12:19)。それゆえ、「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(同21)。聖霊よ、導きたまえ。