礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年11月7日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(召天者記念礼拝)】
       「生きることはキリスト、死ぬことは益」 ピリピ人への手紙 1:20~25


 「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(21)。なんと力強いことばであろうか。
 「生きることはキリスト」。私のいのち、私の生はキリスト、私の生涯、私の人生はキリスト。「私」が生きるという以上に、「キリスト」が生きるということ。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご 自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」(ガラテヤ2:19~20)。
パウロは確信している。パウロを通して、救い主キリストが生きてくださることを。パウロを通して、救い主が御自分のいのちを生きてくださる。そして、パウロの人格をキリストに似た者へとさらにきよめ、パウロの生涯をキリスト御自身の生涯と同じものへと造り上げてくださる。すなわち、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕え、自分をますます神と人に与えていく生涯としてくださる。そして、パウロの存在と生きざまを通して、キリストが生きておられることを表してくださる。
 「生きることはキリスト」。私たちを通して生きてくださるキリストに信頼して前に進んでいくとき、私たちは心から「死ぬことは益です」と言うことができる。

 「死ぬことは益です」。私たちに代わって十字架で罪のさばきを受け、死に勝って復活されたキリストに結ばれている者にとって、死は大いなるいのちへの入り口である。永遠のいのちの新たな段階へと入っていく通路である。生きることもすばらしい。キリストが私を通して生きてくださるから。死ぬこともすばらしい。キリストとともにいることになるから。キリストとさらに親しく、永遠の交わりの中に活かされることになるから。
 しかし、パウロの本音は「世を去ってキリストとともにいること」(23)。世を去って後、今以上のキリストとの豊かな交わりがある。キリスト者は死ぬとすぐ天に行き、「キリストともにいる」。「キリストとともにいる」ということが一層豊かな現実となっていく。そして、意識を持った状態で、主のご臨在を楽しむのである。「はるかに望ましい」(23)ことが待っている。
このことを、毎週週報に載せている『子どもと親のカテキズム ~神さまと共に歩む道~』で告白されている文章において確かめておこう。

 「問40 私たちは死んだあと、どうなりますか。
 答 死んで終わりではありません。死んだあと、私たちのたましいは完全にきよめられ、天におられるイエスさまのもとに引き上げられます。体はイエスさまに結び合わされたまま墓の中で休みます。」

 「問41 体は墓の中で永遠に休み続けるのですか。
 答 いいえ、ちがいます。イエスさまが再び来られる時、私たちの体もよみがえらされ、きよめられたたましいとひとつにされて、イエスさまの栄光の体と同じ姿に変えられます。私たちは、完成された御国で、完全な祝福を受け、永遠に神さまをほめたたえ、神さまを喜ぶのです。」

 「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」。私たちはそのような人生と死へと招かれている。キリストが私たちを通して生きてくださる。それゆえ、私たちの生と存在は、生涯の最期、死のときまで、人々を豊かに生かし、益するものとなっていく。そして、私たちは死を通して、キリスト御自身へ、さらなる栄光へと引き上げられていく。