礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年12月5日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(待降節第二)】
                  「マリアの賛歌」 ルカの福音書 1:26~56


マリアは御使いによる神の告知を受けとめ、応答した。私たちも神に応答したい。

Ⅰ マリアへの受胎告知(1:26~38)

遍在なさる(どこにでもおられる)神(エレミヤ23:24)は、イエスという人となってこの世に来られた。いまやイエスは聖霊において私たちとともにおられる(マタイ1:23)。これこそ、最高の恵み。だから自分に福音宣言しよう。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(28)。
だれとも性関係を持っていないマリアが、神の御子、イエスをみごもる。通常はあり得ない。しかし、「神にとって不可能なことは何もありません」(37)。完全な神(御子なる神)が、罪ある人間の完全な救い主として、罪なき人間としてこの世に来るためには、普通とは違う懐胎の方法、超自然的な方法が必要であった。処女懐胎、それはもっとも奇妙なことに思えるが、実は最も理にかなっていると言える(ローマ11:33)。
御使いのお告げにマリアは戸惑ったが、聖霊によって救い主をみごもることがわかると(35)、「私は主のはしためです。どうぞ、おことばどり、この身になりますように」(38)と応答した。神の恵みは一方的である。人はただ、神の割り込みに身を明け渡すのみである。それこそ信仰。

Ⅱ マリアのエリサベツ訪問(1:39~45,56)
マリアは神の御告げを信じ受け入れた(38)が、いろいろ不安もあった。そこで彼女は親類であり、信仰の先輩でもあり、しかも、不妊であったのに身ごもって先に恵みを受けていたエリサベツ(36) に会うため、ユダの山地の町に急いで行った(39)。
マリアはエリサベツに心開き、エリサベツの預言と励ましのことばに大いに勇気を与えられた。人の前にも低くなることによって、私たちは人との霊的交わりから大きな恵みを得ることができる。

Ⅲ マリアの賛歌(1:46~55)

マリアは「低い者を高く引き上げ」る(52)主なる神の恵みを体験した。だからこそ常に、人の前にも神の前にも低い者であろうとした。恵みは高きから低きに流れる。彼女は恵みにあふれ、神をあがめる。「マリアの賛歌」(マニフィカト)である。
マリアはまず「私の救い主である神」が「この卑しいはしために目を留めてくださった」と語り、「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」(49)と語って、自分に与えられた神の大きなあわれみを歌う(46~49a)。さらに、自分の身に起こった処女懐胎が自分のためだけでなく、御民イスラエル、また全世界のための神のあわれみであると語り、神の救いの計画は歴史を超えて必ず実現することを歌う(49b~55)。

神は大いなる方であり、壮大な救いの計画を実行し、完成される。そのため、神は小さな者に目を留め、小さな者を用いられる。
マリアの生涯は、家畜小屋での出産、外国への亡命、挙句は罪なきわが子が十字架で殺される。恵み、祝福、幸福とは程遠く思える。しかし、神の忠実なしもべ(はしため)とは、自分の思いや計画の実現ではなく、神のみこころと計画の実現をひたすら願い求め、そのために神に身をささげていく者である。自分の人生を自分の思いどおりにすることが真の幸福ではない。神のみこころを第一にし、神にゆだね、神に用いられる人こそ、本当に幸せなのである。
私たちもそのような生涯に召されている。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」。