礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年10月17日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
  「従わなかったサウル」 サムエル記第一 15:10~31


 サウルは主なる神に選ばれ、初代イスラエルの王として立てられたが、神への「不信仰」と「不服従」と「かたくなな心」によってどんどん落ちて行き、悲惨な最期を迎える。
 まずペリシテ人との戦いにおいて、主を信頼できなかった(13章)。形式的なささげ物、形式的な礼拝をささげれば敵に勝てると彼は考えた。彼は主に祈ることもしていない。また主のみことばにも無頓着であった(たとえば、民数18:7のみことばに)。礼拝は主への信頼があってこそ意味をなす。彼は主の御顔を仰がず、主との人格的な関係に生きていなかった。
 それでも主はサウルをすぐに王位から退けることをしない。再度神に聞き従うチャンスを与えてくださった(15章)。「行ってアマレクを討ち、すべてのものを聖絶しなさい」。「聖絶」とは、人も物も完全に滅ぼし尽くしてしまうこと、そのようなかたちで、主なる神に敵するものをすべて主にささげるのである。サウル軍はアマレク人に勝利する。しかし、サウルは徹底的に聖絶することはしない。アマレクの王を生け捕りにし、肥えた羊や牛や子羊の最も良いものを惜しんで滅ぼさずに分捕って来た。「ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである」(9)。サウルは主の命令、神のことばに不服従であった。サムエルからその点を指摘され、責められるが、サウルは言い訳を繰り返すだけであった(15,20~21)。
 サムエルはサウルに言う。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従おうことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる…」。サウルは恐れをなし、「私は罪を犯しました。・・・どうか今、私の罪を見逃してください」とサムエルに嘆願する。しかし、主に向かって祈ってはいない。主の前に、心砕かれ、悔い改めてはいない。それが証拠に、サウルはサムエルにあきれたお願いをする。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください」(30)。サウルは人前で王としての面目を保つことしか考えられなかった。主に対する「不服従」と「かたくなな心」のゆえに、彼はどんどん落ちていった。
サウルは「あなたの神、主」と言う(15,21,30)。主はサムエルの神であって、サウル自身の神という意識は希薄であったのだ。サウルと主の間には隙間があったのである。神と私の間の隙間を絆に変えなければならない。主が「私の神」だと実感できることが大切である。そのためには、主なる神のみことばを聴き、主にいつも祈ること。すなわち、主と対話することである。主との交わりの中で、隙間は小さくなっていく。主の愛を知り、主を畏れることを知っていく。主の前で心が柔らかにされ、主に心がまっすぐに向けられていく。主の心を知って行くので、主をますます信頼しようとする。主に従いたいと願い、かつ、主に従おうと必死でもがいていく。そして、自分の罪を認めては主の前に謝り、悔い改め、それでも見捨てないで付き合ってくださる主とともに歩もうとするのである。
  「私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 揺るがされることがありません。」(詩篇16:8~9)