礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年9月5日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
        「私は主を見ました」 ヨハネの福音書 20:1~18


 復活の主イエスがマグダラのマリアにお会いくださった。光といのちと喜びの第20章である。

Ⅰ マグダラのマリアと二人の弟子たち(20:1~10
安息日が明けた週の初めの日(日曜日)の朝、マリアはイエスの墓に来て、大いにあわてふためいた。入り口をふさぐ石が取りのけられていたからである。
彼女の報告を聞き、シモン・ペテロともう一人の弟子は墓に急いだ。たしかにイエスの遺体はない。亜麻布だけが遺体を包んだときのままに残されていた。超自然的なことが起こったのだ。
もう一人の弟子(使徒・福音書記者ヨハネ)はこの光景だけを「見て、信じた」(8)。復活の主イエスを実際に目の当たり見ることはなくても信じることができる(29)。その道が開かれている。

Ⅱ マグダラのマリアと二人の御使いたち(20:11~13)
マリアはイエスの墓の外で泣き続けたが、二人の御使い(天使)を見つけたので、彼らにこう言った。「だれかが私の主を取って行きました」。
彼女にとってイエスは「私の主」、かけがえのないお方。「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8:2)は、イエス無しには生きることができなかった。
「イエス無しには生きていけない。私にはますますイエスが必要」という感覚の深まりこそ、キリスト者の成熟なのである。

Ⅲ マグダラのマリアとイエスの二人で(19:14~18
 泣き続けるマリアが後ろを振り向くと、復活の主イエスが立っておられた。しかし、彼女はイエスを園の管理人だと勘違いする。イエスは彼女の名前を親しく呼ばれた。「マリアム!」(16,18節の原語。これは当時の日常語のアラム語の呼び方)。彼女は死からよみがえり生きておられる主イエスに出会った。イエス自身が彼女に近づき、親しく名を呼んで、彼女の目を開いてくださった。
イエスは「わたしにすがりついてはいけません」と彼女に言う。「すがりつく」は今までの慣れ親しんでいたイエスへの接し方を示す。これからは違う。天に上られた主イエスが、聖書のみことばと聖霊において臨在し、語り、活かし、導いてくださるのだ。私たちもいま「見ないで信じる」者として生きている。
イエスはマリアに託したメッセージの中で、ふがいない男の弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ぶ。復活のイエスに結ばれ、弟子たち(キリスト者)は皆、イエスとともに同じ父、同じ神を持つ一つ家族、愛の共同体となる(17)。マリアはこのメッセージを伝える使命を与えられ、出て行った(18)。復活の主イエスの愛を受け、イエスとともに喜びの生を生きる使命が与えられたのである。

マリアは復活のイエスにまことの「主」を見た。私の人生を永遠に導いてくださる神・救い主・兄弟・友を喜び発見したのである。私たちもこの主を見ることができる(Ⅰペテロ1:8)。