礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2021年8月15日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
        「死にて葬られ」 ヨハネの福音書 19:31~42


 聖書はイエスが本当に死んだことを徹底的に証言する。イエスは「死にて葬られ」た。

Ⅰ ローマ兵士たちによるイエスの死の確認(19:31~37)

 死刑執行のプロであるローマ兵がイエスの検死をした結果、イエスはすでに死んでいた。それで、二人の犯罪人とは違い、イエスは足を折られなかった。過越の子羊の骨は折ってはならないと聖書で定めらていた(出エジプト12:46、民数9:12)。イエスこそまことの「過越の子羊」。実際、イエスは過越の祭りの真っ最中に十字架にかけられた。
かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民は、子羊の死により、その血によって、さばきが過ぎ越され、奴隷状態から解放された。そのように、イエスの十字架の死によって、その血によって、私たち信じる者の罪は贖われた。罪に対するさばきは過ぎ越した(ローマ8:1)。神は私たちを罪から解放するため、解放し続けるため、十字架のイエスを私たちの目の前に差し出しておられる。
 イエスは心臓を突き刺され、からだから血と水が流れ出た。血は「罪の赦し」を(エペソ1:7)、水は「永遠のいのち」(4:14)、また、「御霊」(聖霊)を表す(7:39)。イエスの十字架の死、十字架の贖いに基づいて、イエスを信じる者には、「罪の赦し」と「永遠のいのち」が豊かに与えられる。「聖霊」と「聖霊がもたらす救いの賜物」が豊かに豊かに注ぎ与えられる。それゆえ、今日もイエスにまなざしを向け、信仰によってイエスを迎えて歩もう。

Ⅱ アリマタヤのヨセフとニコデモによるイエスの埋葬(19:38~42)
十字架刑死者の遺体は、ユダヤでは律法に従って(申命記21:22~23)その日のうちに取り降ろされ、犯罪者用共同墓地に放り込まれた。日が暮れたら安息日が始まるので、素早く埋葬しなければならない。そうでなければ、イエスの遺体は共同墓地に放り込まれてしまう。そんな暗澹たる状況で、「ユダヤ人を恐れて」(38)イエスとの関係を公に表明していなかった「裏の弟子」とも言うべき人物が登場してくる。
 アリマタヤのヨセフとニコデモが「思い切って」(マルコ15:43)名乗りを上げ(38~39)、彼らはイエスの葬りを粛々と行った。イエスの遺体は、三日後の復活という事実がはっきりと明らかになるように、だれも葬られていない墓に葬られた。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道3:11)。こうして、ヨセフとニコデモはイエスの真の友(真の友がする義務は弁護と葬り)となった。

 黙想の中で、イエスの遺体を葬る現場に身を置いてみよう。イエスの遺体、それは「私」の死体でもある。私に対する神のさばきは終わり、私の古い人、すなわち、罪深い本性は死んで、葬られてしまったのだ。イエスは「死にて葬られた」。イエスにあって私も「死にて葬られ」た。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくな」なった(Ⅱコリント5:17)。