礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2021年8月8日、蓮沼キリスト教会 平和祈念礼拝】
     「ともに暮らす家を大切に」 創世記 2:1~17

 本日は平和祈念礼拝。今も平和とは程遠い状況がある。平和を求めて真剣に祈らなければならない。「平和をつくる神の子」(マタイ5:9)として何ができるかを主に祈り求めたい。
 聖書が教える平和は、人間の「存在」(創世1:1)と「生命」(21)と「人格」(同27)が、神のみこころの通りに尊重され、守られ、いよいよ豊かに輝いていくことができる恵みの状態である。平和は戦争がない状態にとどまらない。人間の「存在」と「生命」が大切にされ、一人一人の「人格」が尊重され、自由と愛にあふれれる交わりが豊かに保たれている状態こそが真の平和。平和は究極的に神がつくる(イザヤ45:7)。それゆえ、私たちは祈り求める。
 私たちが祈り求める平和は、第一に「神との平和」(ローマ5:1)、第二に「内心の平和、心の平安」(ローマ5:5)、第三に「キリスト者同士の平和」(エペソ2:15~16,18)、第四に「この世における国と国、共同体と共同体の平和、人と人との平和」。平和をつくる者として召された神の子たち(キリスト信者たち)が現実につくっていくこの世の平和である(マタイ5:9)。キリスト者はまず自分自身がすべての人と平和な関係を保ちながら(ローマ12:18)、対立し合う者たちの間の和解を仲介していく。融和と相互理解の場を提供し、ともに生きて行く道を探っていく。第五に「被造物(自然)との平和」。人間が神のみこころにかなって被造物世界の管理することによって実現する被造物との平和、調和である(創世2:15、ローマ8:19~22)。

 ローマ教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』(2015年)は、地球環境の問題を危機的な現状を十分に踏まえながら、総合的、聖書的、キリスト教的に豊かに取り扱っている。以下に少し引用する。
 「神は人間に地球を与え、その与えた本来の善なる目的を尊重して地球を用いるようにお命じになっただけでなく、人間自身もまた神がお与えになった贈り物なのです。ですから、人間は神から授かった自らの自然的、道徳的成り立ちを大切にしなければなりません」(115)。
 「ひとたび人間が現実からの独立を宣言し絶対的支配権をもって振る舞うと、『人間は、創造のわざにおいて神に協力するという役目を果たす代わりに、自らを神の座に置くことによって、ついには自然の反乱を引き起こ』すので、わたしたちの生の基盤そのものが崩壊し始めるのです」(117)。それゆえ、「人間の刷新なしに、自然とのかかわりを刷新することは不可能です」(118)。
 「より少ないことは、より豊かなこと」(222)。少しの小さなことを心から喜び、それに深く向き合い、愛と祈りを込めて丁寧にかかわっていく。そこに真の豊かさがあり、それは主イエスが示してくださった生き方でもある。
 「すべてのものとの平和」、それはむさぼりを脱する態度、食前・食後の感謝の祈りから生まれてくる(227)。「すべてのものとの平和」を食事のたびに願い、主に祈る。日々にその祈りを重ねていく。平和の主は私たちのこの小さな祈りを決して無にはされない。

 最初に神が創造された世界には平和が満ちていた。最初の人が罪を犯した結果、平和が崩れた。しかし、平和の君イエスが贖いを成し遂げ、平和の道がたしかに開かれた。そして、完成の時が必ず来る。その時、平和は完全に実現する。その日に向かって、私たちキリスト者は「平和をつくる者」として平和を祈り続ける。日々の生活で、心をこめて、神のくださる平和を求めて祈り、そして、神の平和を歩んでいく。