礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2021年8月1日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝】
         「十字架の下で」 ヨハネの福音書 19:23~30


 イエスの十字架は私たちが常にその下に立たなければならない信仰の原点である。

Ⅰ 十字架の下で ~第一の四人組~(19:23~24)

 イエスの十字架の下には、二種類の四人組があった。第一は、四人の兵士たちである。
彼らは十字架のイエスには目を向けず、ただイエスから由来した衣を獲得することにのみ興味があった。イエスご自身よりもイエスから来るご利益を求めていた。

Ⅱ 十字架の下で ~第二の四人組~(19:25~27)
 第二の四人組は、四人の女性たち、イエスの母マリア、その姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアである(25)。そこにはイエスの愛弟子(福音書記者・使徒ヨハネ)もいた。彼らは十字架のイエスご自身に目を向け、そこにしっかり「立っていた」(25)。
十字架のイエスは母マリアを愛弟子ヨハネに託す。十字架のイエスに心を向け、十字架のイエスの下に立ち続ける者たちは、血のつながりを越えた、しかし、イエスの十字架の血(犠牲)による新しい神の家族とされる。
 私たちはぜひ、十字架のイエスのもとで、命がけの愛を注いでくださるイエスにあって、互いに受け入れ合い、愛し合う、新しい家族として生かしていただこう。しかも、どんな人をも受け入れることができる開かれた家族として。

Ⅲ 十字架の上で(19:28~30)
 イエスは十字架の上で「完了した」と言われた。この語は元は商業用語で「支払い完了」ということ。
私たちの罪は支払いきれない神への負債のようなもの(マタイ6:12、「負い目」)。人間のどんな善行、努力、犠牲をもってしても罪を帳消しにすることはできない(詩篇49:7~8)。しかし、イエスは私たち人類の代表として、生涯にわたる神への従順のゆえに、また、十字架の上で罪なきいのちを差し出し、神のさばきを受けて死んでくださったその死のゆえに、私たちの罪の負債を「支払い済み」としてくださった。  私たちの罪の贖いは「完了した」。私たちの救いに必要なすべてはイエスにおいて成し遂げられた。それゆえイエスを信じるのみ。
 そして、信仰でイエスに結ばれた私たちの生涯は、罪と不名誉に満ちていたとしても、十字架のイエスにあって神の御前には「完成した」ものとなっている。私たちにはイエスにある復活の道、永遠の栄光への道が開かれている。

 イエスの十字架の下に立ち、十字架のイエスを見続けたい。そこに神の愛と力が溢れる。